不再戦平和の活動

講演・学習

『拉孟の戦い』の証言を聞いて

【後日談】

 伊藤万平さんにもっとお話を聞きたくて、8月21日に自宅を訪問した。そして、“爐賄時、南方軍の通信隊の所属で「拉孟の戦い」の生き残りではないが、岐阜の戦友会でその話を聞き、記録も読んで、ぜひ話さなければと思われた、ということがわかった。
 偶然にも同日、知人の青木茂さんから、次のような返信を受けた。
 「伊藤万平さんは拉孟日本軍守備隊に所属した兵士で、全滅戦を戦い、そして奇跡的に生き残った人ということですね。まさに、ビックリ仰天です!」
 青木茂さんは中国各地の万人抗(人捨て場)の実態を本にまとめて紹介しているひとである。「拉孟の戦い」にもくわしく、彼の知らない生存者がいたと聞いてその驚きが大きかったと思う。そして、
 「私は10月に騰越に3泊して拉孟などを確認して回ることにしています。世界でただ一人の拉孟戦の研究者である遠藤美幸さんが同行します」と書かれていた。
 これまたビックリ。こんな身近に「拉孟・騰越の戦い」の現場に行こうとしている人がいるとは。
 青木さんから「伊藤万平さんにどうしても会いたいが、何とかなりませんか。会えるようにとりはからっていただけるとありがたい」と当然の要求がきた。
 しかし、私は確認の後だったので、「事実確認をせずに、勘違いのまま文章を書いて発信し、申し訳ない」と謝罪のメールを送った。
 すると折り返し青木さんから、遠藤さんのコメントを添えて次のような返事が来た。
 「さっそく確認していただき助かりました。伊藤さんが拉孟守備隊と無関係だとわかり安心しました。何しろ、拉孟戦の専門家の遠藤美幸さんが知らない新たな生存者が発見となれば大事になるので」
 続いての遠藤さんのコメントは、さすが専門的で鋭い指摘だった。
 
 伊藤さんの証言にはいくつか疑問がある。
 〆埜紊寮錣い1944年8月15日という点。玉砕日は9月7日です。毎年その日に福岡で慰霊祭があり、私も慰霊をしている。拉孟の生き残りでこの日を知らないわけはない。
 伊藤万平さんが最後の報告者である点。公刊戦史には木下昌巳さんが報告者として記載されている。
 Y婆劼ら司令部(龍陵)まで200kmもある? 実際は60km。
 だ限玄圓一人もいない? 米国資料には拉孟、騰越の生存者の名簿が記載されている。
 これ以外にも気になる点がある。戦記や公刊戦史にも「拉孟」と表記してあるが、そもそも中国に「拉孟」という地名はない。日本軍が勝手につけた名前で、現地では松の多い山だから「松山」と呼ばれている。
 また、8月中旬は、まだ金光守備隊長も健在で、軍事物資の空中投下もあった。脱出将校の木下中尉が守備隊長に脱出命令を下達されたころです。拉孟の要の関山陣地の激しい戦闘が中旬にあったので、そのことかもしれませんが、8月15日10時と詳細な記述が気になります。まさに9月7日の玉砕覚悟の斬り込みの様相ですが、最後の残存兵は70人にも満たなかったと言われています。
 さらに、中国兵の数ですが、10万とは雲南戦場へ投入された総数でしょう。拉孟戦は4万5千です。
 騰越での戦没者数は2301人ですが、2800人は少し多いように思います。他師団が入っているのかな?記述にいろいろと不正確さがあるようです。

 大変ありがたい指摘をいただいた。いずれにしても「拉孟・騰越の戦い」について、これだけ身近に話題として浮上し、さらに事実関係が詳細に語られるということは、歴史のかなたにゴミのように忘れ去られていない。歴史的教訓として日本人の前に提起される火種がまだまだ残されている、と感じた。

            柳田 常樹(緑支部)

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