不再戦平和の活動

講演・学習

『拉孟の戦い』の証言を聞いて

『拉孟の戦い』の証言を聞いて 柳田 常樹(緑支部)

 前回に続き、96歳の伊藤万平さんが語った。拉孟の日本軍守備隊は敵の包囲の中、武器、弾薬、食料の補給もなく3カ月間絶望的な戦いを続け、1944年8月15日、の夜最後の突撃を試みた。
 「15日午後10時、拉孟陣地は満月煌々として照らし、嵐の前の静寂。我が方全員650名余、戦える兵は300名足らず。大半は傷病者、杖、こん棒を持ち士気旺盛」指揮官が最後の訓示を述べ、全員が万歳三唱をして敵陣に突入。「足の不自由な兵も肌身離さず持っていた手榴弾と共に敵兵に組み付き自爆…」当時の記録によると拉孟守備隊1300人全員戦死。彼は上官から「陣地最後の状況の報告を」との命を受け、敵陣を突破し、10日後に200厠イ譴浸蔑疉瑤砲燭匹蠱紊い燭箸いΑ
 同じころ、騰越でも、守備隊2800人全員戦死という悲惨な戦いが行われた。

 私たち2人が騰越(現在は騰衝市)を訪れた時、何気なく「滇緬(てんめん)抗戦博物館」に立ち寄った。滇緬とは、雲南省とミャンマーのことで、博物館には「援蒋ルート」をめぐるこの地域での戦いの様子が生々しく再現、展示されていた。見学者の多いのに驚いたが、建物の外に出て、さらにビックリ。大きな石板にたくさんの名前が刻まれていたからだ。まるで、沖縄の摩文仁丘の「平和の礎(いしじ)」のように、名前がびっしりと書かれていた。その数10万人を越えるという。中国人だけでなく、イギリス人やアメリカ人の名前もある。「平和の礎」と異なるのは、戦没者の慰霊碑でなく、日本軍に勝利した兵士達の顕彰碑だったこと。戦いから70年も過ぎ去っているのに、いや70年目だからこそ、その記念碑として新たに造ったのかもしれない。花束がたくさん置かれていた。私はこのような形で戦争の記憶を後世に残そうとしていることに驚いた。
 私はこれを眺めているうちに、この地で全滅した日本兵にも一人ひとりの名前があるはずだと思った。彼等は好き好んでこの地に来たわけではなく、赤紙1枚で駆り出され、生き残ることが許されず、最後まで戦って死ぬか、インパールのように餓死するかどちらかだった。彼らにも両親がいただろうし、妻子もいたかもしれない。私はここに来るまでそのような事実などまったく知らなかった。 私は何回も中国を旅し、この国の地理・歴史にも興味を持ってはいたにもかかわらずだ。ましてほとんどの日本人はこの事実についてまったく知らないだろう。中国では英雄として彼らの功績を後世に伝えようとしているのに、この地で死んでいった日本人は歴史の彼方に、ゴミのように忘れ去られようとしている。いったい彼らの死をどう受け止めたらいいのか,重い課題を負わされたような気がして、その場をそっと立ち去った覚えがある。
 私は今、死んだはずの人が生きて目の前にいることにまず驚いた。そして、うまく言い表せないのだが、彼は埋もれた歴史の事実を掘り起こし、亡くなった人達に代わって話しているように思えた。さらに言えば、今日のために元気でいられるように毎日を過ごしてきたとも述べていることから、人生最後の生き証人として語っているような気がした。
 彼は最後に「二度と再び戦争をしてはならない」と話し結びとしたが、全く同感である。
 あの戦争はやむをえない戦争だったと美化し、再び戦争の出来る国にしようという動きが急速に台頭してきている。私はその動きにとても危惧している。そうならないように努力することが必要だし、そのことが先の戦争で死んでいった人達の供養にもなるのだと思っている。

柳田 常樹(緑支部)

(続きをもう1回掲載。後日、伊藤万平さん自身は当該戦の生存者ではないことがわかり、そこからいろいろな事実がわかる。)

このページの先頭にもどる

楽しさ広がる日中文化教室

日中文化交流

不再戦平和の活動

県連活動ニュース

日中友好協会の沿革と概要

協会の公式見解