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『拉孟の戦い』の証言を聞いて

『拉孟の戦い』の証言を聞いて

  18年7月21日、名古屋市緑区の生涯学習センターで『戦争を語り継ぐ集い』に初めて参加した。参加は満席に近い50人超。最初の語り部は96歳の伊藤万平さんだった。
 彼の「ラモウ」という言葉に、私は一瞬「エッ! 拉孟?」と記憶をたぐり寄せた。そして、その戦いについて驚きをもって聞いた。そこを4年前に友人と2人で旅したからだ。
 拉孟は中国の雲南省の西側に位置し、ミャンマーとの国境に近い。怒江(どこう=中国語でヌージャン)が北から南に流れ、ミャンマーに入るとサルウイン川と名称を変え、インド洋に注ぐ。非常に深い渓谷をなし、川幅も広い大河だ。拉孟はその怒江を見下ろす山上にある。
 太平洋戦争中は、ここ拉孟と近くの騰越(とうえつ)という都市で、日本軍と中国国民党軍とが激戦を繰り広げた。私たちは、そのことを現地に行ってはじめて知った。その歴史的経過について少し説明したい。
 1937年に日中戦争がはじまり、蒋介石は首都南京を放棄、移動し、最後は中国の奥地、重慶を首都とした。アメリカ、イギリス、ソ連などの国々が物心両面で支えた。援助物資はミャンマーから、雲南省の騰越や昆明を経由して重慶に運ばれた。このルートは「援蒋ルート」と呼ばれていたが、日本軍はこれを破壊しようと何回も試みた。1942年にミャンマーを占拠したのもそのためだった。そして、中国国境を越えて雲南省に侵攻し、拉孟や騰越などの地域を占領した。中国軍は、日本軍をこれ以上中国領内へ北上させないため、怒江にかかる大事な橋を自ら壊して撤退した。 しかし、1944年になると、状況が一変。日本軍は「援蒋ルート」をさらに断ち切るため、ミャンマーからインドのインパールに向けて作戦を展開するが、イギリス軍との戦いに敗れた。多くの日本軍将兵は撤退途中、飢えと連日降りそそぐ雨の中、険しい山岳地帯の中で死んでいった。その数7万人を超えたという。
 中国軍はこの状況を見極めると、イギリス軍やアメリカ軍の支援を得て、10万人を超える兵力で、直ちに占領された地域を奪還するために反撃を開始した。彼が話してくれた『拉孟の戦い』はこの時のことだった。

          (数回のシリーズで掲載します)

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