不再戦平和の活動

講演・学習

県連主催第2回学習会

『中国の民族問題』第1章

 4月20日(水)県連文化教室にて、第2回学習会が行われました。16人参加。前回の西脇隆夫先生の概説に続き、今回は松浦均常任理事(学習委員会責任者)によるレポートで、テキスト『中国の民族問題』第一章を中心に学習しました。
 
〈概要〉さまざまな問題の所在…中華人民共和国は56もの民族からなる多民族国家です。漢民族以外の多くが周辺地域にくらし、漢民族と非漢民族との摩擦は、文革以後の1978年末の新政策採用以後顕在化しました。
 社会生活を営むなどの自治は許すが独立を含む自決権を認めていないことが問題とされ、これは新中国の建国以来かというと、容認と否定の一進一退といえる民族政策の変遷があります。

1 清朝期と民国期の民族政策…清朝最盛期から末期にかけての民族政策

    雍正帝の時代は「領域統治」的な性格をもち、国家より世界観念が濃厚な政治共同体でした。
 初期の周代の血縁による邑共同体から、秦代の官僚による里共同体の時代では「順逆…従うか逆らうか」に規範性を置く時代がつづきました。
 漢代以後は、「儒教文明」を世界規範として共有し、夷狄か中国かの文化の時代でした。「儒教文明」と「皇朝の大一統=中華世界」の同一を行いました。「華化」の過程と「漢化」の過程では、「華化すれども漢化せず」のもとでは、周辺民族(モンゴル、ウィグル、チベット)の満州人王朝の時期があり、清は満州人の王朝でした。
 乾隆帝時代…みずからチベットの転輪聖王となりパンチェン・ラマの大施主となった。     モンゴルではチベット仏教圏同様の大施主となり、満州族の大ハーンとして君臨しました。支配構造であるか共存かは、中国研究者は支配と観る者が多く、チベット中心の研究者は共存とみます。いずれにせよ、世界統合の力学は清朝期には働かず、多重文明の結合体世界として「順逆」に規範性をおく伝統王朝の「華夷秩序」観が働いていましたが、求心力はありませんでした。清末期には「西洋の衝撃」(外圧)によって「領域国家」「世界国家」へと転生しました。国境は物理的境界線で、「中華世界」は「文明」への参入による区分です。
 1689年の中露での「ネルチンスク条約」、1727年中露モンゴル間の「キャフタ条約」。国家観念、「藩部」「朝貢国」は「文明」圏に属しています。本格的な「中国世界」の動揺につづく国境策定は19世紀半ば以後です。アヘン戦争、清仏戦争、日清戦争によって、「藩部」の「多重文明結合体」に対する「信頼」の失墜で崩壊しました。少数民族が清朝に対し、自らも守れないとして、信頼を置かなくなったのです。

中華民国期国民政府の民族政策

   孫文が「駆逐韃虜(清=満州族)、恢復中華、創立合衆政府」をスローガンに掲げて辛亥革命と呼ばれる中国本土独立運動を行いました。「漢」による「中華」の回復を唱えたのは「漢人中心の国家」の枠内でした。「五族共和」を主張しましたが、漢(中心)、満、蒙、回(ウイグル)、蔵(チベット)―「中華の大一統」が前提でした。「五族共和」は漢族に同化―モンゴルやチベットに大一統を強いるものでした。
 蒋介石の「中華民族一元論」も強制による「共和の大一統」政策であり民族自決の否定、という点では孫文とおなじでした。

「2 中国共産党の結成と初期の民族政策」以下については次号に掲載します。

レポートの後の主な質疑・討論

 A 少数民族問題の解決策は?
 B 格差問題と差別、偏見、人権の問題、尊重しての解決が求められるが、むしろ弾圧との声が届いている。
 C 2013年ころから中国が変わった。中国の夢・中華民族復興の夢というスローガンが至る所に掲げられた。それは2本柱で、経済と軍事の面がある。民族教育も難しい。漢語が駆使できなくては、上級の教育も受けられない。…などの発言がありました。


次回:第3回学習会は9月に予定しています。県連版にて予告します。

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