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内蒙古で過ごした少年時代(下)

 列車は警備されながら、線路の障害物や地雷を警戒して徐行と停車を繰り返しながら高粱畠をゆっくり進む。時々銃撃の音がする。

広い高粱畑に延々と続く電信柱は根元から切り倒され、碍子は打ち砕かれ通信線は途絶している。睡眠と飢えをどうしのいだか覚えていないが暑さにあえぐ喉の渇きはどうしようもない。

いつ動くとも知れない貨車が停車しているときに、湧き水があると聞けば大勢が水を求めて走る。ある日、私とすぐ下の弟と一緒に水筒を持って水汲みに行った。

帰りに、母がいる無蓋貨車を探してうろうろしている内に貨車が動き始めた。それを見ていた母は、狂気のように叫んだとのことである。

そのとき、どこからか一人の中国人男性が駆け寄り無蓋貨車に私らを投げ込むようにして押し込んでくれた。もしこの中国人に助けてもらえなかったら、私と弟は餓死するか中国孤児になっていたであろう。偶然命拾いした。

 天津のある学校の講堂が収容所であった。何百人も同居である。親子八人に与えられた面積はたたみ二畳しかなかった。毛布を広げるだけの面積である。 

飯は一日三食,一食一椀である。空腹で仕方がない。栄養失調と不衛生のため子どもから先に病気になる。医者も薬もないので次々に死んだ。母の薬は、もぐさと線香だけであった。母は腹痛でも風邪でも体が悪いと聞けば、いつもお灸である。そのせいか、私の兄弟は全員無事に帰ることができた。

 一九四五年十一月天津の港から貨物船の船底に詰め込まれ博多に引揚げた。    
      (おわり)  

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