− 講演・学習
第2回 私の戦争体験 中国人民解放軍の元兵士 前畑信男さん
日中戦争で日本兵として戦い、八路軍の捕虜から兵士として中国人民解放戦争に従軍した前畑信男さん(86)=日中県連会員、名古屋市天白区在住。
「元気なうちに語り伝えておきたい」と、あちこちで自らの戦争体験を語りつづけ、8日には県連の文化教室で2時間余にわたって話しました。
基塔木その他の戦役の模様
私が中国人民解放軍に従軍したのは1946年10月でした。
間もなく、吉林省九台市の北、松花江の南の辺りだと思う。八路軍下の東北民主聯軍の指揮で、いま問題になっている日本軍が投棄した「毒ガス弾」を、敦化県大橋屯の小川で氷を割って収拾しました。
その後、威虎嶺山岳地帯で正規軍に編成され、陣地構築と訓練を受け、正月前に揄樹県へ移動。そこで東北民主聯軍第一縦隊三師八団直属連隊第一排(小隊)に編成され、戦闘準備に入ったのです。
新正月2、3日前だったか、突然、行動開始。
白雪の荒野をカムフラージュの白い布をかぶり夜間行軍で南下。松花江を渡河し正月5日ごろ深夜のこと、劉排長がカタコトの日本語で「戦闘開始だ。静かに小川に降りて進み、伏せろ!」と叫ぶ。もうそのときは、ヒューヒューと頭上を弾丸と照明弾が飛び交う、敵(国府軍)の爆弾がわれわれの進む小川に命中し炸裂する、柳の下で副排長の中尾さんが戦死しました。
さらに前進し、敵のトーチカが火を噴く雪の土手をはい上がり、黄色火薬を詰めた包爆弾を小脇に抱えて肉薄突進する、わが軍の機関銃で一斉射撃、大豆畑の畝に伏せる、時いかほど過ぎたか…。
親友の中国の同志がやられた、小川に引きずり下ろし担架を呼び団の衛生隊へ運ぶ。彼からは中国語を習い、日本語と漢字を教えた仲だった。地主の納屋のヤンソウの上には次からつぎと運び込まれる負傷者、応急措置をした老百姓の担架隊で後方へ運ばれていく。
小川は砲弾が炸裂して水が噴き出し、ウーロ靴はびしょ濡れ。中国の同志は親切に私の靴を脱がせて両足を雪でこすり、また上手に履かせてくれた。すでに夜も明け、静けさのなか硝煙ただよう陥落した基塔木の町が見えだした。
何十かの硬直した、勇敢な人民解放軍戦士の尊い屍を馬橇に乗せ、葬る。30数名いた日本人兵士も負傷や凍傷で10数名になりました。この戦役は三師八団が突撃隊で、七、八団が包囲攻撃。一師、二師は長春吉林方面から来る敵の援軍を迎撃殲滅し大勝利だと聞きました。
その後、1947年、48年に「三下江南」「四戦四平」「遼瀋戦役」と激戦を重ね、四平の戦闘では「工作模範」、法庫の戦闘では「戦闘英雄」と評価され勲章を受章しました。法庫では日本人兵士4名が死傷。瀋陽は鉄西から進攻し、市街戦で遠藤君が戦死しました。
全東北を解放し東北野戦軍として進関、「平津戦役」では天津市街戦で地雷と河川を突破し敵を某大学構内まで追撃、殲滅しました。……これら幾多の戦役はいまなお私の目に焼きついています。それから河北、河南、湖北と南下しましたが、マラリヤと空爆に悩まされました。
最後の戦闘は銃声で終わった
1949年10月1日に新中国――中華人民共和国が成立し、同年の暮れか50年の正月ごろだと思う、南方には冬がないので覚えていません。最南端の国境の河、山腹から眺めるきれいな河は故郷の長良川を思わせ、郷愁に駆られました。
この河の向こう側はビルマとか越南とか言っていた。夜明けとともに対岸にはちょっと違った家と国旗が見える。河岸で数十人の敵兵士がドラム缶で作った橋の周囲をうろついていました。
突然わが方が一斉射撃、敵は戦意なく簡単に投降し捕虜となり、橋を破壊して最後の戦闘はあっけなく終結。夕方、連長から「中国大陸の国民党を一人残らず消滅させた」と告げられ、戦友たちと歓声を上げました。
その後、わが軍団は北上し華中に駐屯。間もなく突発した朝鮮戦争支援のため「抗美(米)援朝義勇軍」に編成され、再び東北に戻りました。朝鮮との国境で越境戦闘準備に入るのですが、日本人は越境の許可がおりず、部隊の後方基地の鉄嶺で戦争が終わるまで三八軍留守部隊勤務となりました。
この間、どれだけ多くの中国の同志・戦友が私の心に宿っているか計り知れません。その後、華中、華南軍区へと移籍し、1957年ごろ退役、上海の国営工場に勤務しました。
翌58年の夏、夢にまで見た郷里へ「生きて健在でおる」旨を連絡。親兄弟をはじめ周りの人々を驚かせ帰国し、温かく迎えられました。 帰国後は、生活習慣と社会制度の長期の空白を取り戻し、人々の温かい援助を受け、今日を迎えることができました。