不再戦平和の活動

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65年前の生存者にお会いして  聞き取り!

史実に迫り、友好を深める                ー大府強制連行調査旅行素描ー

   3月3日武漢空港で、懐かしい劉宝辰先生(河北大学)とガイドの湯福啓さんのお出迎えです。マイクロバスで長江沿いを下り、黄石市へ。劉先生からは、いずれの方も、アポをとってもらってあるものの、我々に会うことに少々の警戒心があることを伝えられます。

 4日、唐燦(とうさん)さんにホテルの茶館でお会いします。相当の地位だった方で、息子さんとともに地元紙の記者が同行しました。劉先生に送ってもらった資料で、最も詳細な証言をしている方です。我々の心配をよそに、劉先生と湯さんが我々の来意を告げると、以後どの方も快く応じてくださいました。唐さんの証言が始まります。

 5日は武漢市で、今年1月に亡くなった楊貴発さんのお宅へ伺いました。ご病気の奥様も最初の挨拶に顔を出され、インタビューには息子さんや娘さんだけでなくお孫さんの青年も同席してくださいました。
 
 重慶爆撃基地跡探す

 楊さんの写真は、息子さんがパソコンを取りに走り、西秀成さんのパソコンに取り込みます。帰国時に支給された毛布が残っており、戦争展などの展示のためにお借りしました。お別れにお孫さんが日本語で謝意を述べました。

 午後、南守夫さんのたっての希望だった重慶爆撃基地の空港跡を探します。地元の運転手黄さんも、マンション建設中だから無理だろうと言います。行ってみるとやはり、塀に囲まれており、難しそう。ここは湯さんの出番です。守衛に我々の調査の目的を語り、説き伏せて、広大な飛行場跡に進入。コンクリートを上塗りしてあるものの、長く伸びる滑走路を発見。武漢最後の夕食。黄さんが、我々の調査に共感してくれ、かなり高価な地元酒をふるまってくれました。

 たしかな記憶に驚き
6日、列車で河北 省の邯鄲(かんたん)へ。邢台(けいだい)市の王連喬さんにお会いします。この方も小学校の校長で退職し、お宅は相当広くきれいなマンションでした。王さんの証言が始まります。木下大三郎さんは、ビデオ撮影をしながらどこでも連行者のテントの位置と配置をはじめ、大府の地の事実に迫りました。若くて可愛かった(当人の弁?)王さんは、事務所にいた二つ年上の優しい日本人女性の名前まではっきり覚えていました。

 山田花尾里さんは、方言に手を焼きながら通訳で大奮闘。劉先生につきっきりで、証言資料の不明部分の解明にも力を注ぎます。ハードワークでダウンした山田さんに代わって、7日は私の教え子で石家荘に住む周冨強君と張韶欣(しょうきん)さんが同行し、定州市の農家に楊印山さんを訪ねました。少し離れた道路まで息子さんが迎えに来てくれます。日本軍に殴られて耳の遠い楊さんは、楊貴発さんのいとこ。44年同じ村の8人の農民とともに日本軍に連行されたことから、苦難のお話が始まります。印山さんの飾らない人柄にひかれました。

 石家荘に戻り、強制収容所跡地の記念碑を訪問。同行取材の尾崎吉彦記者の執念の追求で、収容所で死んだ2万人の遺体が埋められた「万人坑」跡を探し当てました。
 
 貴重な成果を基礎に
 時々中国語で話していた調査団最高齢の岩瀬信光さんの発声で、最後の夕食。八木幸夫さんから皆さんに訴えがあり、劉先生には8月に名古屋へ来ていただくお願いをしました。9月の慰霊祭に2人の生存者を招待することも確認しました。

 6日間、観光はもちろん買い物タイムもなし。済んでみればお互いの紹介や感想を述べ合うこともなく、今日はちょっと「勤務」を離れてと注文しても、食事中も調査のことばかり。でも「最好」のチームで、最高に充実した調査に参加できた喜びをかみしめています。
*調査の詳細は、参加の皆さんのレポートを、大府シリーズで掲載予定。ご期待ください。劉先生と湯さんにも、書いていただくようお願いするつもりです。
                         伊藤 充久

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