不再戦平和の活動

講演・学習

「壊憲」ねらう歴史の捏造 ー 「田母神」論文

ー田母神論文を衝くー 愛知県連会長・石川賢作

   田母神「論文」の水準

田母神氏は「我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である」と結論している。

 「濡れ衣」というのは「無実の罪」(広辞苑)をいうのだが、他方で「日本だけが侵略国家だと言われる筋合いもない」と開き直っている。一方で「無実」を言い、他方で日本も他の列強と同じ侵略国だという、基本的・論理的に矛盾する文章である。

 この「論文」がどの程度の水準の作文かを示す1例をあげよう。「論文」では「(日中戦争全面化の発端となった)盧溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だったと劉少奇が証言している」と書いている。ところが、皮肉にも「論文」がせっかく2ヶ所も(兵員数だけ)引用した秦 郁彦氏の著書『盧溝橋事件の研究』(東大出版)の中で、秦氏は盧溝橋事件当時の詳細な資料に基づいて、この時、「劉少奇を筆頭とする(中共)責任者の多くが平津(北京・天津)を留守にしていた」と述べている。田母神氏はこの部分を読んでいなかったらしい。以下、中国関係について若干のべたい。

日本軍の軍紀は厳正であったか
 「論文」では「日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある」とするが、南京事件の例を挙げれば、事件当時、日本陸軍中央でさえ、予備役になっていた元教育総監真崎甚三郎大将は、江藤源九郎予備役少将の上海派遣軍視察報告を聞いて「軍紀風紀頽廃し、・・強姦、強盗、略奪、聞くに忍びざるものありたり」と、南京占領から間もない翌年の1938年1月28日の日記に記している。(笠原十九司『南京事件』岩波新書)。
 外国人の証言については、すでに1936年11月に日独伊防共協定を結んでいたドイツでさえ、その駐華外交官が南京事件の凄惨な事実の詳細な報告を本国に送っており、この記録は公表・翻訳されている。(『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店)。

「満州帝国」の人口はなぜ急増したか
 「論文」は「“満州帝国”の人口が爆発的に増加したのは満州が豊かで治安が良かったからである」としている。人口は、自然災害や「北伐戦争」に対する日本軍の山東出兵など、内戦や政治不安などで山東省や河北省からの流入が増え、その数は「満州国建国」以前の1927年から急増している(『満州年鑑』英語版1931年)。また、日本の支配に苦しむ朝鮮人が大量に流入した。人口増加は「満州帝国」のおかげではない。それでも足りず、1937年からは「満州産業開発五カ年計画」による軍需生産とその後の国境地帯の軍事工事に、華北地方から軍の指揮下で大量の労働力を集めたが、これは強制連行、「万人坑」にもつながった。日本人の比率は3%程度であったが、関東軍と警察の護衛の下、鉄道沿線地と豊富な地下資源を独占し、広大な農地を中国人農民から取り上げて武装開拓団を送り込んだ。 

 また、「満州国」の治安は日本にとって極めて悪かった。治安といえば、関東軍を思いだすが、実は日本人を幹部とする「満州国警察」も重要な役割を担っていた。日本人警察幹部が著した『満州国警察小史』によれば、この警察は飛行機や河川用軍艦までもつ10万人に及ぶ武装勢力であったが、「(満州国)建国から終戦にいたる十数年間は金日成・楊靖宇などをはじめとする共産党・抗日軍の徹底的な抗戦があり、“王道楽土”の表看板とはおよそ縁の遠い治安粛清工作」が繰り返され、この第一線を担っていたのが「満州国警察」であると概説している。満州国警察が相手にしていた「盗匪」とは単なる盗賊ではなく上述のように主に抗日武装集団であった。その討伐に当たっては逮捕や潜伏中の検挙、投降帰順中のものが逃走や反抗した場合は、「当然射殺して差し支えない」。状況によって高級警察官の自由裁量に任されていた。これを「臨陣格殺」と言った。たとえば、反満抗日の英雄とされる楊靖宇を包囲し最後に射殺したのは西谷喜代人警佐(もと憲兵曹長)であり、楊 靖宇の首級はさらしものにしたうえ、ホルマリン漬けにされた。「“臨陣格殺”の制度は終戦による満州国解体の日まで継続した」と当時の満州国警察幹部(日本人)自身が書いている。(『満州国警察小史』)

 植民地の内地化の実態
 「論文」は「当時列強といわれる国で植民地の内地化をはかろうとしたのは日本のみである」として植民地化を美化しようとしている。中国では「内地化」を「皇民化」と呼んでいるが、その「内地化」の一例が「満州国皇帝」の弟 溥傑と日本の華族 嵯峨家の娘浩の結婚である。これは関東軍による強引な政略結婚であり、「皇帝」溥儀はこう書いている。「(この結婚は)日本人は溥傑を篭絡して、日本人の血を引いた子供を生ませて私に取って代わらせようとしているのだ」(溥儀『わが半生』)。1937年4月の結婚後、1ヵ月もたたぬうちに国務院が承認した“帝位継承法”を見て、子供の出来ない溥儀はやがて弟夫妻の子が皇位を継ぐことになり、その際は自分たち兄弟の生命が危険だと怖れていた。
また、「満州国」の第一国語が日本語であったこと、国歌が「おおみひかり あめつちにみち・・」という日本語で作られ、日本人は「おおみひかり」とは日本天皇の威光と思って歌っていた。「内地化」で中国人、朝鮮人、蒙古人から言葉も奪おうとしたのである。

 日本は第2次大戦前から「五族協和」を唱えたと言うが
 「五族協和」なるものについて、「満州国軍」の幹部を養成する「満州国軍官学校」の例を挙げると、ここにも日本人と中国人の生徒がいた。しかしそこには目に見える差別があった。たとえば、服装は日本人生徒は上から下まで新品、中国人生徒には外出着以外は古服が支給され、食事は日本人生徒には米飯、中国人生徒にはコウリャン飯を食べさせた(山室信一『キメラ』)。また建国大学など満州国官吏養成の大学その他の学校も含めて、天皇のいる東京に向かって「東方遥拝」や日清・日露戦争以来の日本兵の「英霊」への「黙祷」が強要された。「遥拝」の発音は中国語の「要敗」(きっと負ける)に似ており、東方すなわち日本は必ず負ける。また「黙祷」の発音は中国語の「磨刀」(剣を研ぐ)に似ている。中国人学生・生徒たちは東方=日本が負けることを信じ、その日のために、差別と屈辱の中で軍事や学問の習得に励んだのである。

   平和憲法の破壊をねらう
 日本政府は中国はじめアジア諸国、とりわけアメリカの怒りを恐れ、問題化する前に急遽、更迭した。アメリカでは、ワシントン・ポストやニューヨーク・タイムズなどの主要メディアが、「論文」で日本がルーズベルト大統領の「罠」にはまって戦争に引き込まれたと「非難」していると指摘し、「大東亜戦争」という表現をしている点も報道されている。大統領選挙の時期でなければ、この「論文」はもっと大きく政治問題化したであろう。

 彼は更迭後まもなく、雑誌『WiLL』の09年1月号に発表した「手記」で、「民間人」として、「専守防衛」、「非核三原則」、「武器輸出三原則」の「見直し」を主張し、さらに、アメリカの核兵器使用により深く関わるという道を提起している。問題の拡大を恐れて懲戒処分を避けた更迭という決着にも「文民統制」の危うさを感じる。

 かつて世界大恐慌のなかで満州事変が引き起こされた。「歴史は繰り返す」ことを許してはならない。                                                              (2008年12月8日)
                日中友好協会愛知県連合会 会長 石 川 賢 作 
  (この記事は『愛知憲法通信』に寄稿したものを短縮・転載したものです)

このページの先頭にもどる

楽しさ広がる日中文化教室

日中文化交流

不再戦平和の活動

県連ニュース

県連活動ニュース

日中友好協会の沿革と概要

日本中国友好協会