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名古屋と南京 二つの観音像の悲劇 討論集会

 河村市長「南京虐殺否定発言」を撤回させる会の主催によって、2月21日、名古屋東別院で、「名古屋と南京 二つの観音像の悲劇」と題する集会が行われた。60名が参加。問題の性質上、主催者の呼びかけに応え寺院関係の人たちが10人、斎藤市議、田口市議、三宅県議が参加された。日中愛知県連は主催者の構成団体の一つ。
 まず、「日中戦争に翻弄された二つの観音像」ダイジェストDVD(30分)を見て、二つの観音像の数奇な運命、悲劇についてあらまし知ることができた。
 また、長年、この問題に取り組んでおられる「二つの観音様を考える会」を代表して角田さんが、これまでの経過を報告された。南京市の毘盧寺を毎年訪問し交流しておられる法衣の大東師は、二つの観音様の悲劇にどう向き合うか、政治や社会の動向に流されるのではなく自立した運動が必要と話された。  

 二つの観音様について初めて知ったという人が多く、質疑応答が盛んにおこなわれた。
 1937年12月、日本軍は南京市を攻略し南京大虐殺を行った。一昨年前の2月末、河村市長は南京市からの表敬訪問団に対し、南京虐殺を否定する発言を行った。これが原因となり、南京市と名古屋市の友好都市関係は断絶した。日中友好協会愛知県連は、他の団体に先駆けて河村市長に発言撤回を要求し抗議した。その後多くの個人、団体とともに「河村市長「南京虐殺」を撤回させる会」が結成され、宣伝行動や講演会が今も続けられている。南京との友好関係を少しでも前進させたいという主催者の願いから、この二つの観音様の討論集会が企画されたものである。
 南京大虐殺の後、日本軍は中国人の怒り、恨みをなだめるため仏教を利用した。名古屋にあった高さ十メートルの木造の十一面観音像を南京市最大の寺 毘盧寺に送った。時の傀儡政府は、信者の反対があったにもかかわらず毘盧寺の本尊である金箔の千手観音像を日本に送った。当時、名古屋市、仏教界と市民は盛大にこの観音様を歓迎した。しかし、現在この千手観音は、名古屋市千種区平和公園の平和堂の中におさめられている。内部は暗く、湿気が多い。年々痛みが進んでいる。保管は名古屋市土木局となっており、書類上は美術品扱いとのことである。仏像として扱われていない。信仰の対象になっていない。
 一方、毘盧寺に送られた十一面観音像は、文化大革命のとき寺もろともに焼き払われた。焼け跡は工場になった。しかし、その後毘盧寺の再建は進み、今や立派な大寺院となっている。十一面観音像は焼失したが、その頭部の写真は毘盧寺のロゴマークとして、今も中国人に崇拝されている。本尊のない毘盧寺の信者は、千手観音の写真を拝んでいる。たぶん一日も早く名古屋の千寿観音像に里帰りしてほしい気持ちであろう。
 河村市長は「戻すことが南京事件の謝罪ととらえられると未来に禍根を残す」(中日新聞 2010/8/20)と言って返却しようとしない。
 集会の終わりに、参加者の気持ちとして平和堂にある千寿観音像は観音様であり、美術品ではないことを拍手で確認した。
 参加者のKさんから次の感想が寄せられた。私は名古屋生まれの名古屋育ちです。お燈明もお水もお供えも無く佇まれる異国の観音様が父母が眠る平和公園にいらしたんですね。観音めぐりが大好きな私としては胸が痛むお話を今夜聞きました。故郷に御帰り頂ける手立てはないものか考えながら帰宅しました。
 県連副会長 鳥居達生

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