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その〈2〉   元愛知県連事務局長  大橋満男

 名古屋という都市について全く予備知識のないまま、柏崎駅から北陸本線の普通列車に乗り込み(国鉄)8時間かかって名古屋駅に着いたのが、1954年2月15日の朝9時頃であった。私が想像していた大都市名古屋の印象は、駅前の噴水と大した雑踏もなく広い道路が印象的であった。
 演説会を手伝ってほしいと要請してきた「服部団長」へ名古屋についたことを告げ、「どこに行ったらよいか」と聞いて、市電の終点である浄心停留所で降りるように指示され、帰国後4か月ぶりに「服部団長」と固い握手を交わしたのだった。
 
何しろ右も左もわからない名古屋で活動する以上「服部団長」の指示通りに動くしかないのは当然と思いながらも、指示を聞いて思わず「服部さん自分には到底無理だ、出来ないので帰らせてもらう」と言ったものの、友好運動をやるといった手前、おめおめと帰ることも出来ず指示通りに従うことにした。
 
 今日からの食事と宿泊は「団長」の兄が経営している染色工場の倉庫で寝てくれ、火鉢など火は使わないこと。食事は工場の流しで自炊してほしい、現在深刻な糸へん不景気で染色の仕事は半日もないから、あとは自由に活動してほしい。仕事の賃金は出せない、という何とも厳しいものだった。                            (以下続く)

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