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皇姑屯事件博物館参観記

皇姑屯事件博物館参観記

 日中十五年戦争はどの都市(近郊)で始まったのか、との問いにすぐ「瀋陽」と答えられる人は少ないと思う。「満州事変」というではないか。なぜ瀋陽なのだ?と思う人があっても不思議ではない。 1920年代にさかのぼる。大連―瀋陽(奉天)―長春とつなぐ南満州鉄道(満鉄)があり、それを守るべく関東軍(日本陸軍の一部隊)が存在した。軍の司令部は旅順であったが、在来線(中国側の管轄)も含め瀋陽はハブ的存在であった。
 1931年9月18日夜、瀋陽市の北郊外、柳条湖という村落で、関東軍は自ら満鉄のレールを爆破、「中国軍が満鉄線を破壊した」として瀋陽市内に突入、空を炎で染めた。これが日中十五年戦争のはじまりとなった。
 なぜ関東軍はウソまでついてそんなことをしたのか。「本当は、やっぱり中国軍の仕業じゃないの?」当時圧倒的多数の日本人はそう信じていたという。大日本帝国の軍隊即ち皇軍がそんなことするはずがない、と。
 日本では「満州事変」と呼んだが、中国ではその日を「九一八事変」という。そして柳条湖近くに大きな記念博物館をつくり、毎年9月18日にその広場で式典と集会して平和を誓う。ちなみに日本では「日中戦争」というが、中国では「抗日戦争」と言う。瀋陽こそ日中十五年戦争開戦の都市として、歴史の1ページに加えておきたいものだ。

皇姑屯

   (昨年)9月18日に「午前中は犇絨貳記念博物館瓠午後は犢銚汎屐覆海Δ海箸鵝貿酳館瓠△修譴任いい任垢?」王賀英さんは私に尋ねた。もちろんOKだ。 満州事変の3年前、1928年6月4日に東北軍閥の雄、張作霖が列車で北京からの帰途、瀋陽駅付近の皇姑屯(写真)で列車爆破のため死亡、関東軍高級参謀河本大作の仕業といわれる。「張作霖爆殺事件」である。当時日本政府は事件を隠ぺいするため、「満州謀重大事件」と呼び、幕引きを図った。だが現地ではそうはいかなかった。張作霖には長男の張学良がいた。彼は父張作霖の支配下にある奉天軍の将校であり指揮官でもあった。事件が発生したとき、張学良は居合わせてはいなかった。
 事件を知っていち早く駆けつけたのは、張作霖の第五夫人である。彼女は素早く張作霖を車に乗せ、引きずりながらも自分の部屋に運び込み、すべての日本人を遠ざけ、張学良が戻るまでの五日間、あたかもまだ生きているかの如くふるまったという。
 列車爆破をしてまで殺さなくても、もっと別の方法はなかったか、という意見がある。そして実際暗殺を試みた人が二三いるが、みな失敗に終わっている。そこで出てきたのが河本大作である。河本の狙いは、「暗殺が満州の武力占領のきっかけならなければ意味がない」(大江志乃夫「張作霖爆殺」)というのだ。爆殺の後に張学良が復讐のため軍隊を動かす、そして「我が関東軍」がその軍隊を鎮圧し、一挙に満州を武力制覇する、というものだった。そしてその考えは村岡関東軍司令官はじめ軍幹部とも共有していた。   田中稔(扶桑)

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