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きりえ

「きりえ」運動草創期の思い出(2)

応募作品増えて悲鳴

第3回(1969年)紙上コンクールのときは、応募作品が53点にのぼり、友好新聞編集部が悲鳴をあげました。新聞紙上に応募作品全部を掲載しきれないのです。

 論議の結果、予備選考で合格した20点を友好新聞紙上に紹介し、入選者を投票で決めるという方法をとりました。この予備選考委員には、中谷泰(画家)、須山計一(画家)山本光男(協会東京都連「民芸・きりがみ研究会」代表)、そして橋爪利次(日中友好協会本部事務局長)の4人が委嘱され選考にあたりました。

 私も予備選考に参加したのですが、まじめな作品ばかりで、なかなか選考に骨がおれました。この時、本部の専従役員として教育宣伝を担当していた石川賢作さんの知恵もかりて合格20点を選びました。この20点を投票にかけて入選者を決めたのです。当時の作品はカット風小品が圧倒的でしたが、第2回コンクールで第3位で入選された愛知県の福田宣明さんの作品「ベトナム人民のたたかい」は、今日の「きりえ」に通じた作品で、注目されました。第4回でも福田さんの作品「メコンを警備する解放軍女性民兵」がA賞を獲得しました。

 紙上コンクールがつづき、各地でたくさんのきりえ愛好者が生まれ、支部のサークルがあいつぎ結成されました。コンクールの名称は1975年の第8回コンクールから「日中友好きりえ・きりがみコンクール」に変わり、1980年の第12回コンクールからは「全国きりえコンクール」になりました。この時期からみんなが、「きりえ」「日本のきりえ」と呼ぶようになりました。
橋 爪 利 次(元本部事務局長)
つづく
 

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