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きりえ

「きりえ」運動草創期の思い出(3)

船出を前に白熱の論議

 日中友好協会が「きりがみ、きりえ」運動を開始した1967年は、協会の歴史上最大の苦難の年でした。

連日、連夜、毛沢東一派の暴徒たちが「お前らは中国の文化大革命(文革)を支持しない」「反中国だ」と叫んで日中友好協会の事務所(東京・善隣学生会館内)に鉄棒、こん棒、竹槍などをふるって押しかけてくるという毎日でした。事件は3年間続き、本部事務所が破壊され、協会員ら数百名が負傷しました。

 そんな事態の中だから、当初は、「きりがみ」創作運動の開始をめぐって事務局内でも白熱の議論がありました。役員Aさんが、「善隣学生会館事件の真っ最中という非常事態なのに、女子どもの遊びごとのように色がみきりとは…。事務局長の頭はどうかしているよ…」と、提案者の私に喰ってかかってきました。

きりがみ運動の話が外に伝わってから、「こんな重大情勢のなかで落語家の真似をせんでもよいではないか…」との批判意見も聞こえてきました。

 私がきりがみ運動について熱心になりだしたのは、東京都連の山本光男さんたちがつくった「民芸きりがみ研究会」の活動に魅せられ、北海道、広島など一部支部の切り紙サークルのみなさんとの接触のなかでも啓発され、これを全国的運動にしたいなあと思うようになったからです。本部の和田一夫理事長、教育宣伝や文化問題の責任者だった石川賢作さん、東京都連事務局長の鈴木定夫さんと相談すると、みんな大賛成でした。しかし、身近にAさんのような反対論もあったのです。
  
 
橋爪利次(元本部事務局長)
  つづく  

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