不再戦平和の活動

講演・学習

第3回学習会

中国の少数民族問題

 9月21日、松浦均さんのレポートでテキストの『中国の民族問題』「第蕎録恵羚饑立から1960年代までの民族政策」を中心に学習会を行いました。毎回のことですが、皆さんの学習意欲は高く、文化教室は満員の14人が参加し盛況でした。いくつかの特徴点を報告します

レポートの骨子〈1〉民族自決権の肯定と否定 

 ゝ戝羚顱閉觜饉腟狙力の抑圧下)の時代には民族自決権の肯定と否定とで揺れていた。(1931年肯定、1938年否定、1945年肯定)△箸海蹐解放後、中華人民共和国は国内の少数諸民族の民族自決権要求の正当性を認めなくなった。49年10月に中華人民共和国が成立したので、民族自決権は必要なくなったという理由であった。
 中華人民共和国の民族政策の基調は、民族区域自治政策(中国民族区域自治)
自治権を付与するが、範囲は特定地域に限定する。共和国からの離脱権、分離権、を明確に否定したのは戦後の米ソ冷戦体制の時期の危機感を反映したものである。
 
 民族識別工作 
 1953年に実施された民族識別工作により、中央権力を頂点とした政治権力のヒエラルヒー下に序列化するものだった。54年9月第1期全国人民代表大会までに漢族を除く合計38の民族集団を少数民族として識別確認をし、それぞれの全国代表を選出した。

 自治権の内容
 「区域自治」の確立は、少数諸民族を中央集権的統一国家へと収斂させる権力機構の設立にほかならなかった。
 少数諸民族も漢民族同様、「民族」とよばれ得たとしても漢民族のようにはそれ固有の統一国家を形成しうる力量がなかった。
 49年から56年ごろまでのこの時期の中国の民族政策は、「穏健路線」と呼びうる性格を持っており、チベットおよび四川、雲南などのチベット人居住地域を除けば比較的平和裏に推移した。

レポートの骨子〈2〉社会主義改造と民族政策

 農業集団化・定住化政策の導入…1953年全国的に農業互助組の組織化が開始され、54年には初級合作社化に突入するや、民族地域でも農業区では、ほぼ同じテンポで農業集団化が開始された。
 だが、民族地域の多くは集団化にはなじまなかった。山区、牧業区は外される。
かわりに、牧業区では遊牧民族に対して定住化政策を導入し、漢民族の大量移民を実施、新疆、内モンゴル地域を中心に屯田兵的色彩の濃厚な生産建設兵団が組織された。
 この過程で民族地域に紛争が頻発する。56年2月調停により解決の指示が出される。だが、山区、牧業区でも牧草地、農地の集団化が開始され、紛争は、雲南、四川、貴州などチベット人居住地を中心に拡大した。紛争は新疆に飛び火し、チベット地域に波及の危険があり、党中央は56年12月、チベットでは62年まで集団化を行わないとの文章を通達して、沈静化につとめた。
 56年後半には分離権の要求や主張は反乱の形をとって現れ始めていた。

意見・感想とまとめ

 参加者からは、「ダライラマとパンチェンラマについて説明して欲しい」との質問とかテキストとは違う現地の状態の補足があったり、チベット語(文字)はどうなるか、現在の旅をしてみての実情などが語られました。
 締めくくりの発言で西脇隆夫さんは「中国では、政権党としてこの問題を深めてきて、その結果これをよしとしてきた経過がある。現状と歴史でこうならざるを得なかった、という点もあるだろう。日本ではダライラマの立場からの論調がほとんどを占めているが、もう少し広い視点で見ないといけないだろう」と述べました。

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