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内蒙古で過ごした少年時代(上)
日本軍と警察の残虐行為
私は昭和九年十二月、熊本県葦北郡津奈木村で生まれた。
この年の生まれは教育制度が激変した時期に遭遇した世代である。五歳のとき父が内蒙古政府(蒙(もう)彊(きょう)政府)に勤めていたので、五歳のとき母に連れられて、弟と妹と共に博多から天津を経て張家口(現河北省内)のさらに北にある張北に渡った。
張家口は万里の長城の北辺の守りで、大境門という大きな城門がある。張北は、その昔ジンギスカンが一時兵をとめたところで、小さい村であった。それでも村は周囲二キロほどの城壁に囲まれ、東西南北だけに門がある。城壁の外(城外)には大草原が広がる。冬、雪はほとんど降らないが、烈風吹きすさぶ酷寒の地である。春先は、日本まで飛んでくる蒙古風が砂嵐を巻き起こす。ひどいときは昼でも暗くなる。
六歳のとき、それまでの尋常小学校は国民学校に改名された。太平洋戦争勃発の年である。このような辺境の地でも、日本人だけの小さな国民学校があり、私は国民学校一年生となった。同級生は数名しかいなかった。全部で三十人もいただろうか。国民学校では、教科書は国定教科書で天皇崇拝の軍国主義教育が徹底していた。十歳のときが、日本敗戦の年である。それまで五年間も中国にいたのに、日本人だけの社会であったので中国語を覚えずに過ごしてしまった。今思えば中国語習得の機会を逃し残念である。侵略民族は子供でも被侵略民族との間に友人をもてない証左である。
蒙彊政府は、旧満州政府と並んで日本の傀儡(かいらい)政権である。日本政府は、満蒙は日本の生命線であると称して侵略し、支配した。城外には、日本軍が常時駐留していた。ときどき匪賊(ひぞく)討伐(とうばつ)と称して出撃した。匪賊といっても、それは中国の抗日戦ゲリラであり、八路軍の部隊で、後の中国人民解放軍のことである。毛沢東の名は知らなかったが、八路軍はパーロと呼ばれ日本人から恐れられた。戦死者が出ると、生徒は学校の行事として慰霊祭に参加しなければならなかった。夏、日射病で倒れる者もいた。
父の仕事は、はじめ庶務会計、次に張北病院の事務長をしていた。個人的には中国人に中国語を習い、親切にしていたようであるが、日本の軍と警察の中国人に対する残虐行為は酷かった。父が目撃したことを母に、ひそひそ語っていたことを覚えている。八路軍のゲリラの捕虜や容疑者を捕まえて、墓穴を掘らせ目隠しをし、前かがみにさせ後ろからピストルで銃殺したこと、軍刀で首をはね、死体を穴に蹴落としたことなどである。容疑者に対する警察の酷い拷問のことも聞いた。こうして軍と警察は、ここでも大日本帝国の威力を誇示し、中国人民の民族解放の戦いを押さえ込もうとしたのである。
1930年代に建てられた張北小学校前
家族と現地小学校の先生達
(つづく)
鳥居 達生・県連副会長(1934年生まれ)