不再戦平和の活動

講演・学習

民族統一戦線 形成の流れを追う

劉 建華・偽満皇宮博物院研究員の論文から

柳条湖事件80周年のことし、「2011 あいち・平和のための戦争展」で日中県連は「満州事変」の関連資料を展示するほか、偽満皇宮博物院研究員の劉建華女史を招いて記念講演会を開きます。まずは講演原稿「抗日民族統一戦線の形成を論ず」(山田花尾里+石川賢作訳)からフラッシュで――。

“東北の危機”が

1931年9月18日、日本帝国主義は手の込んだ策略で満州事変を引き起こし、中国東北部への武力侵略を開始した。しかし、蒋介石は「外敵を払うにはまず国内の安定を」という反動政策を打ち出し、張学良に「絶対に抵抗してはならない」と命じ、東北軍を山海関まで撤退させた。

日本軍は吉林省や黒竜江省を侵略して、32年2月5日にハルビンを占領、わずか4カ月余りの間に東北地方全体が陥落。3月1日に日本は植民地政権である「満州国」を作り上げた。まさに“東北の危機”であった。

 日本帝国主義の野蛮な侵略は中国人民の激しい怒りを巻き起こし、東北地方では様ざまな抗日武装勢力が現れた。“九・一八” 事変が勃発した翌日、中国共産党満州省委員会は「日本の満州占領に反対して日本帝国主義を打倒し、売国的国民党政府を打倒しよう」と呼びかけた。9月20日には、中国共産党中央委員会は日本共産党中央委員会と連合して「日本帝国主義による東北三省強奪事件宣言」を発表した

抗日方針を確立

33年1月17日、中華ソビエト共和国中央政府と中国工農紅軍革命軍事委員会は「日本帝国主義の華北侵入に反対するために三条件の下で全国各軍隊と共同で抗日することを望む宣言」を発表した。

34年4月10日、中国共産党中央は「日本帝国主義が華北を占領し中国を併呑することを全国の民衆に告げる書」の中で「真に帝国主義に反対し亡国の奴隷になることに甘んじないすべての中国人は政治傾向によらず、職業や性別によらず、すべて反日統一戦線に結集しよう」と呼びかけた。

西安事件起こす

 まず、張学良と揚虎城が協力して西北地区の抗日民族統一戦線を建設し、これによって全国の抗日民族統一戦線を推し進めていこうとしたのである。

 36年12月4日、蒋介石は洛陽から西安へ行き、東北軍と十七路軍の師団長以上の将校とそれぞれ話し合い、引きつづき“共産党討伐”を行うよう求めた。張学良は蒋介石に“共産党討伐”を放棄するようにと言ったが容れられず、張学良と揚虎城の二人は武力に訴えて諌める決心をした。

 12月12日、張学良と揚虎城は部隊を指揮して蒋介石を拘留し、内外を震撼させた西安事変を起こした。

抗日へ国共会談

 中国共産党と国民党は37年2月12日から3月15日にかけ、西安で正式な談判を始めた。3月24日から月末にかけ、周恩来は蒋介石と杭州で会談。次いで6月初め、周恩来は廬山で蒋介石とひきつづき会談した。

 37年6月4日、日本では近衛文麿内閣が組閣。全中国を完全に植民地とするため、全面的な中国侵略戦争を発動することが決定された。7月7日には盧溝橋で日本軍による“七・七事変”が仕組まれ、月末には相次いで北平、天津を占領した。まさに“中華民族の危機”であった。

統一戦線成立へ

 こうした情勢の中で、国共両党はひきつづき会談を行った。8月に入ると、日本軍は大挙して上海に進攻し、南京を脅かした。国民党政府外交部はついに「自衛抗戦の声明書」を発表し、「中国は日本のとどまることのない侵略に押され、ここにやむを得ず自衛を行い暴力に抵抗する」と表明した。中国はここから全国的な抗日戦争に突入した。

 

張作霖爆殺現場

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