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【09.11.15】大府飛行場強制連行生存者の証言資料届く! 

大府飛行場強制連行生存者の証言資料届く!  常任理事 伊藤充久

 今年7月に天津市烈士陵園を訪問した際、交流した強制連行研究者の河北大学劉宝辰先生にお願いしていた大府飛行場関係者9名分の資料が9月に届きました。10数年前に先生が調査したものです。

 先生は手紙で「7月4日(我々がお会いした翌日)保定(河北大学所在地)に帰ってから、手元にある労工たちが以前書いた回想資料に目を通しました。また、保定市周辺の町や村を10数日走りまわり、皆さんが彼らに会うために健在の当事者を探しました。健在の人が二人いるのは間違いありません。もう一人健在の可能性があり、連絡をとっています。この三人は共産党の老幹部で退職しています。事情を多く知っている人が一人いますが、過去に被った誤解のため挫折しており、進んで話そうとはしません。皆さんが友好の誠意を表わせば、多くを語るでしょう。」と書いてきました。

 現在この資料の翻訳作業中ですが、ここでは9名中最も詳細な郝自生さんの証言(A4版8ページ)を少し紹介します。(これらは資料集としてまとめる予定です。)

 1944年1月河北省清河県の抗日区政府の会議中に、スパイの密告で武装した日本軍が攻めてきて連行された。当時18歳。3月には石家庄の労工教習所へ連れて行かれ、青島出航時には500名ほどになっていた。日本の貨物船の船底に押し込められ2日ほどで下関に着き、汽車と船で北海道の地崎組伊屯武華出張所(現北見市)に到着。警察の監視の下、粗末な掘建小屋で生活し、除雪・森林伐採・地ならし・岩の運搬などを行った。その後名古屋へ行ったという記述があり、道路の補修・飛行場建設作業を行ったというのはここでのことだと思われる。

 毎日10時間以上の労働・1日3回薄いスイトンと硬いマントウ2個の生活で、栄養失調・下痢・日射病・怪我が発生した。日本人監督から時々罵られた。風呂はなかったが、名古屋ではドラム缶にお湯を沸かして入浴したことがある。医者はいなかったが、重病人を近くの診療所へ連れていって診察してもらったことがある。

 当時の心境をこう記している。「仕事は苦しく非人間的で不平等・不自由な生活を経験した。祖国は必ず勝利するという信念はあったが、遠く祖国を離れ前途の予測は全く難しかった。故郷を思い、肉親を思い、一緒に働いた同志たちのことを思っていた」と。

 なお、今回の天津市烈士陵園訪問には、岐阜県連の方々と一緒に行きましたので、岐阜県の各務原、瑞浪、中川辺に強制連行された人たちの証言など関係の資料も送られてきました。関係者に届けました。

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