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「『満州』で敗戦、引き揚げまでの1年2ヶ月を語る」

語り継ぐ、平和への誓いも新たに

  竹内テル子さんの講演…18人の参加で


 去年の秋に、この本『茜雲』を孫やひ孫に伝えたくて、死ぬ前にと書き留めておいたものをまとめました。書いていると、当時の年齢に戻って毎日毎日涙をぼろぼろ流しながらまとめました。
 戦争は、大人も子どもも心にほんとうに大きな傷を残します。終戦は12歳と8ヶ月、ほんとうに子どもでした。新聞記事から戦争が不利だなあと思っても負けるとは思っていませんでした。満州で終戦を迎えて日本に帰るまでの1年2ヶ月、昨日までは想像もしなかったところに放り出されてしまった戸惑い。生まれた年に「満州国」が成立。地球上から無くなるなどとは考えもしませんでした。新京に明日か明後日ソ連の戦車が来るから歩けない人は荷馬車に乗って逃避行が始まりました。父は38歳だったはずです。満鉄社員でした。昭和15年に応召して牡丹江に配置され、戦争が始まっていないので、「どうして」と母に聞くと、「さあ、ソ連兵が入ってくるのを守るため」と答えました。
今、若い人に話すと、「満州ってどこにあるの?」と聞いてきます。
 家族は、両親と私を頭に3人目はおなかの中。弟は昭和17年1月に生まれました。17年の夏に父は帰ってきました。女学校には7月まで行きましたが、3年生になると学徒動員なので、上級生がいません。競馬場では、飛行機の燃料になるという「ヒマ」の種まきをしました。8月に終戦を迎えて、あの「ヒマ」はどうなったのでしょう。その後、その競馬場は日本人のお墓になったのです。

満州でどんな暮らしをしていたか?

   満州でどんな暮らしをしていたか? 首都の新京に住んでおり、満鉄社員の家族は優遇されおり、内地への手紙に「満州はいいよ」と書きました。内地の校長並の給料がもらえました。国策として「高給」でした。担任は国語と算数だけ、あとは専門教科の教員がいただけ。(当時、音楽や美術、演劇などの芸術家は内地では左翼系とみられて、満州へ渡る人が多かった)。「贅沢な暮らしをしていたから罰が当たったのだ」と親戚に言われて悔し涙を流し…。
 「五族協和」のスローガンのもと、すべての権力は日本軍がふるっていました。満州族の子どもが我が家に子守として働いていました。私は母に「ここは満州という国なのに、満州族の子どもはどうして学校に行かないの?」と聞いたところ、母は「貧しいから」と一言答えました。
 北満に開拓団が50団以上いました。恩師の娘さんが満蒙開拓について研究をしています。日本ではお米を作ってもお正月しか白いご飯が食べられないが、満州では毎日3度白いご飯が食べられると宣伝されました。

一日に何百人もの人が亡くなり

   ソ連の参戦で大きな被害を受けたのは、兵隊になれる男子が兵隊に取られて不在だったことから。北満から長春までよく逃げてきたなと思います。50人も100人も収容された避難所は暖房も食料もなく、自活するすべもありません。1日に何百もの人が亡くなり、競馬場に大きな穴を掘って、荷馬車に山のように積んで運んで、1946年の2月には父も発疹チフスで死んでそこへ葬りました。中国では火葬が認められず、土葬でした。大日向村の遺児たちは村に帰ることができず、国は軽井沢の開拓を指示、せっかく開いた畑はゴルフ場に。開拓民の苦労を思うと自分の苦労など苦労とも言えません。新京にいたので、開拓民の存在すら知らなかったし、知らされていませんでした。
母が病気で私が働かないと一家が食べていけない。父の実家の秋田へ引き揚げると、親戚からは「なんで来た?」と言われました。母も満州生まれなので、日本生まれの父の存在の大きさを改めて実感しました。10代では自殺も考えましたが、佐世保に上陸して弟が餓死したことを思うと、弟や妹を見殺しにはできませんでした。
 引き揚げまでの1年2ヶ月。母は、旦那さんが病死して北満から子ども5人を抱えて母子家庭の家族を引き取り、13人で暮らしました。私がたばこを売るなど露天商をして口をしのぎました。男は拉致される恐れがあり外に出ることができませんでした。日本軍があんまりひどいことをやったしっぺ返しです。同級生でいち早く大連に逃げた家族がいましたが、大連は、満州ではなく関東州、日本の直轄地でしたから、敗戦後もまだ生活ができました。子どもまでが割を食う戦争だけは絶対にやってはいけないと思います!4歳下の弟は「船の中でひもじかった」と今も言います。その下の子は何もわからない年齢でしたが、「姉ちゃんは苦労したんだね」と言ってくれます。働くのはほとんど私でした。

日中友好協会の運動に関わって30年

   日中友好協会の運動に関わって30年。友好協会が2つあることも知らずに入りました。日本と中国が国交を回復して1979年に中国の婦女連に招待されました。ニクソンが行って、田中角栄が行って、その次に私が行ったことになります。3週間の滞在で、毛主席の生家や学校、長春、ハルビン、チチハル、大慶にも行きました。
 「満州」は中国では「偽満」と言われますが、生まれ育った者にとっては忘れてはならない場所としての「満州」です。現在では、残念なことも悔しいことも含め、自分の頭で再度咀嚼して考え直します。何がニセモノなのか、昨日の安倍首相の沖縄でのあいさつのそらぞらしいこと。女子高校生の詩の素晴らしさ。そこにいる人たちの悔しさ。今朝の中日新聞1面の写真の翁長知事の目。何が何でも戦争だけはやらない国でいてほしいと思います。
 結婚して今84歳。子ども・孫・ひ孫にも恵まれて、ひ孫がちょうど2歳半、餓死した弟と同じです。父と弟を戦争で無くしましたが、満州では何人が死んだと思いますか?ヒロシマ・ナガサキ・オキナワより多い50万人。そのことに対して国は補償したか?一銭ももらっていません。このままでは、この幸せが続くとは考えられません。70年前の体験がどんな役にたつかわかりませんが、語ることは大人の果たすべき役割だと思います。先日の中日新聞の「平和の俳句」〜九十の務めぞ不戦のビラ配る〜のように、元気で長生きして、語り部として伝えていきたいと思います。
                  (文責 家田 麻里)
 竹内さんに『茜雲』を頂き、カンパした方にお渡しし、8,300円集まりました。ありがとうございました。

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