− 県連・支部だより
温かい援助で苦難を乗り越え 「帰国子女」 鈴木梅子さんに聞く
17歳で、家族と帰国
鈴木梅子(中国名:曽範梅)さんは1960年、中国黒竜江省勃利県で中国残留孤児であった父・曽慶和(日本の姓:金森)、母・尚玉珍の長女として出生しました。17歳の時に帰国し、両親、妹、4人の弟とともに祖父の出身地である長野県安曇郡穂高町の父の姉宅に寄寓しました。
父は中国では会計関係の 仕事に従事していましたが片言の日本語しか話せなかったので、1〜2カ月後に、帰国者支援の長野県担当の山本慈昭さんに手紙を出し、日本での生活に順応するため一家で長野県阿智村の故・山本慈昭さんのもとで暮らすことになりました。
山本氏ははじめ学校の先生でのちに寺の住職でもあり、帰国者のために自宅(別棟)をごく廉価で貸して、そこに3〜4家族を住まわせていました。9月に帰国し、4月の新学期を目標に10月〜3月まで、山本先生のもとで日常会話に困らない日本語の習得と日本の生活習慣などを学びました。先生は橋渡しの仕事で忙しいので、普段は村上というおばあちゃんが世話をしてくれました。
阿智村での半年間の生活
当時、おじいちゃんのような山本先生は70代くらいで寺で奥様とお住まいで、どの人に対しても我が子のように接してくださいました。 中国残留孤児捜しの会長も務めながらでしたから、とても多忙な方でした。特に思い出すのは、(1)ことわざカルタで遊んで頂いたこと…日本語の学びにもなりました。(2)食べ物と食べ方を教えて頂きました。中国での習慣で、生ものは食べられませんでした。冷水も飲みません。…限られた時間で、こうすると美味しいとか体にいい、と言われました。(3)生活態度では、何事も根掘り葉掘り聞くのは良くないとか、日本人は本音と建て前の違いがあるから気をつけなさいなど、丁寧に親切に教示されました。父も中国での生活が長かったので、自分は日本人なのか戸惑うことがしばしばありました。
18歳で小学6年生に編入
翌年の4月に私はまず小学6年生に編入しました。妹は5年生に…国語や社会を中心に勉強しました。
何かを覚えるのに10歳の壁というのを感じました。兄弟でも上の二人は苦労しましたが弟たちはすぐに言葉に不自由しなくなりました。今でも文章を書くときは違和感を感じます。
私の成長期はちょうど中国の文革の時期だったので、さまざまな制約がありました。日本に来て実態が分かりましたが渦中にいるときは何も分かりません。とにかく横打ちの文章はいいが、縦書きの文章は読んでいけないと言われました。
次の年中三に編入。数学と国語、社会はマンツーマン、他の教科は一緒に学びました。