− 県連・支部だより
引き揚げ少年たちの思い出の地をたどる 中国東北地方の旅 (下)
ハルビンの観光で、まず訪れるところは、ロシア風の建物が残っている中央大街(キタイスカヤ)です。歩行者天国の大きな街路は石畳です。土曜日の夕刻だったせいか、おしゃれな若い男女が語らいながら街を歩いたり、松花江公園の川べりで座り心地よい川風に吹かれていました。松花江は川幅約1キロの大河です。
Bさんは、昔、この繁華街の一角にあった薬局の近くに住んでいました。街は跡形もなく変わり、番地も新しくなっていましたが、富士ツーリストと現地ガイドさんの事前の綿密な調査により、「旧住居はここらしいという所が分かり、長年の悲願がかなえられた気持ち」と語っておられました。
育った地に立って
またCさんが通って育った地に立っていた小学校は、名門の小学校として残っていました。日本人の旧学校は、どこも立派な建て物で、今なお、誰でも入りたいと願う名門校として生き続けているのには驚きました。
ハルビンだけでなく、長春でも、瀋陽でも、このように感激的な思い出の地の訪問ができました。瀋陽から東側にバスで2時間ほどのところに撫順市があります。露天掘りの炭鉱として戦前から有名なところです。Dさんのお父さんは、ここの炭鉱で石炭を液化する会 松河江のほとり
社で働いていました。ここは、今も大きな石炭液化の会社として存在しています。道路工事や、建て物の建て替えで混雑していました。Dさんの記憶にある給水塔や建て物は昨年取り壊されたとのことで、残念でした。露天掘りの跡地は広大なくぼ地で、深さ数十メートルの空の大きな池といったところでしょうか。もう掘っても採算に合わないとのことでした。
一行の中で最年長のEさんはわずか14歳でハルビン郊外の軍の飛行場で修理工として働いていました。今、ハルビンは中国を代表する工業地帯です。Dさんがいた当時の平原は、労働者の社宅が立ち並び、緑溢れる大きな公園がある都市に変貌していました。
松河江のほとり
近くに悪名高い731部隊跡地(罪証陳列館)があります。細菌や毒ガスなどを使う生物・化学兵器を研究していたところです。石井四郎(陸軍軍医中将)が、防疫給水本部という名前で秘密裏に悪魔のような人体実験を行ったところです。被験者は生きた人間で「マルタ」と呼ばれました。主として中国人ですが、婦人も子どももいました。およそ3千人です。一人ひとり名前が刻まれた黒い石の位牌が特別な通路の両側に、びっしり並んでいました。帽子を脱ぎ鎮魂の思いでそこを通り過ぎました。
隊員は、ペストやコレラ、発疹チブスなどマルタに注射して、その効果を調べました。また人工的な大きな施設で、温度を下げ凍死させる実験、ガス室で空気を抜いて真空状態にして窒息させる実験毒ガスなどの実験を行いました。敗戦の直前、軍はいち早く施設を爆破しあわてて逃げました。あまりにあわてたせいか、半壊の建て物と煙突3本の内2本が残っていました。培養していた細菌は、どうしたのでしょうか。敗戦後、発疹チブスなど感染症の病気が流行ったと聞きます。日本に逃げ帰った石井四郎部隊長は、研究資料を一切合切米軍に献上し、見返りに戦犯をまぬかれました。
731部隊の焼却炉
長春は旧満州の首都だったところです。満州国の実権は日本が握っていました。
皇帝溥儀は、皇帝とは名ばかりで日本の操り人形でした。溥儀の住居と執務室(日本軍が用意した書類にめくら判をおすだけ)は偽満皇宮博物院として、いま民衆の見学の対象になっています。建て物は立派でも溥儀が、いかに空虚な気持ちで過ごしたかが分かる気がしました。
瀋陽には、「満州事変」の発火点となった地点の柳条湖があります。1931年9月18日南満州鉄道の線路を軍が謀略で爆破しました。これを口実にして、日本軍は全満州をただちに占領しました。9・18記念館に、日本の侵略戦争の数々の資料や証拠品、中国人の犠牲、破壊された町や村、それに対する抗日運動の記録などが陳列され、参観者は列を成しています。中国人にとって15年にわたるアジア・太平洋戦争は日本の侵略戦争であったことは当たり前のことです。しかし、記念館の出口のところには、小泉元首相が靖国神社を参拝する写真がありました。石原都知事のように、今なお中国侵略を認めない政治家が少なからずいます。
廃屋の旧満鉄社宅
学校では、日本の加害の歴史を教えません。侵略戦争を美化する教科書を採用させようとする最近の動きには怒りを抑えることができません。侵略戦争の罪を認め謝罪する気持ちを持つことが、国と国の友好関係を築く上でも必要です。そのような環境を作ることができれば、両国間の軍事的緊張はなくなり、軍事に費やすお金と労力を平和な暮らしに使うことができます。
そのような思いを抱きながら、9月28日、瀋陽から全員無事に帰国しました。 旅行団長 鳥居