− 県連・支部だより
引き揚げ少年たちの思い出の地をたどる 中国東北地方の旅 (上)
旅行団の一行は20人。子ども時代を旧満州で過ごしたか、そこで生まれた人たちが大部分で、かすかな思い出を頼りに旧居を訪ねる旅です。同時に「満州事変」が起こって80周年になりますので、事件の現場、日本軍の侵略の傷跡を確かめ、日中不再戦の気持ちを新たにする旅でもあります。
9月21日、出発当日、思いがけなく台風15号の襲来を受け、せっかく中部空港まで行ったのに取りやめとなり、翌日関西空港までバスで行き、そこから瀋陽に向けて飛び立ちました。さらに乗り継ぎ、延着のためハルビン駅頭のホテルに到着したのは、深夜の2時になっていました。
翌朝ハルビンからロシアとの国境に近い町牡丹江に向け高速道路をバスで走りました。窓外に見える風景は低い山々と平原です。すでに取り入れは済んだのか背丈ほどもある枯れたトウモロコシの畑が遠くまで広がっています。稲刈りの終わった田んぼには、脱穀前の稲が積んで乾燥させてありました。
聞けば、この地方の米は特別においしいとのことでした。ところどころ20〜30戸の農家の集落が見えます。たったこれだけの集落で、どうやって収穫するのだろうかと不思議に思いました。
70〜80年前、日本政府はこの広大な土地を中国農民から奪い、日本から貧しい農民を満蒙開拓団として送りこみました。中国農民の悲惨、困窮、恨みは当然ですが、満蒙開拓団の日本人農民も開墾と(日本式)農業を苦労して営んでいたに違いありません。
1945年8月、日本の敗戦とともに状況は一変し、日本人は何もかも捨てて命がけで逃亡しなければなりませんでした。苦難の引揚げの始まりです。車窓に広がるトウモロコシの畑や、いくらか黄色に色ずんだ山々を見ながら、当時、人目を避けながら昼夜逃げ迷った開拓団の人たちの苦難が思いやられました。
牡丹江市の脇を有名な牡丹江が流れています。川幅は数百メートルで水量は、秋のせいか少ないように見えました。川岸の公園には、抗日戦争で犠牲になった若い戦士の大きな石像が建っていました。
眺めのよい川岸にはいたるところ高級な高層マンションが林立しています。中国の都市では、いまやありふれた風景です。聞けば、建てるごとに即金で売れていき、内装には個々人が、お金をかけるとのことです。中国の中産階級が大きく成長しているのでしょう。
牡丹江市の東、ロシアとの国境に東寧の要塞があります。日本の関東軍が対ソ戦のために作った要塞です。もちろん中国人を強制連行し強制労働で造らせたものです。完成後は軍の秘密保持のため、従事した労働者は皆殺しにされました。
Aさんのお父さんは、ここで軍務についておられましたので、そこを自らの目で確かめたいという切なる思いがあったのですが、台風15号のせいで訪問の時間がとれず残念なことになりました。
牡丹江に一泊し、翌朝電車で6時間かけてハルピンにもどりました。電車は硬座の寝台車で中国人の家族(老夫婦、嫁と孫)と一緒の席でした。可愛い孫に微笑みかけるとすぐにわれわれと仲良くなりました。
片言の中国語と筆談で、最小限の会話が成立しました。その家族は、一昼夜以上かけて杭州にもどるとのことでした。ちなみに電車は牡丹江発で終点は温州です。夫は南の杭州の人で、妻は牡丹江生まれです。そんなに離れている二人が、どういう縁で結婚したのかと尋ねると、「文化大革命の時代都市の若い青年の多くが農村に行って働いた。自分は牡丹江に来たのだ」と説明してくれました。
彼に日本について知っていることを尋ねると、都市は東京と大阪だけで名古屋は知りませんでした。それでもトヨタは知っていました。意外なことに、東日本大震災の大津波を知っており心配してくれました。大津波の映像がテレビで世界中流れたからでしょう。
同じ車中で、70歳ほどの農民らしい老婦人が、われわれが日本からの旅行者だと知ると、あなたたちは、国家の負担で旅行しているのかと尋ねたので、全員個人負担だとこたえると「日本人は金持ちだ」といったので大笑いしました。こうして草の根の日中友好に花が咲き、退屈せずに6時間の列車の旅を終えることができました。
つづく
旅行団長 鳥居達生