− 県連・支部だより
韓国併合 ― 大陸への動脈路ひらく 植民地化で帝国主義列強の一員に
元名城大学教授・鈴木隆史さんに聞く
日中県連は今年度の旅行企画の第一弾として「日清・日露戦争から見た韓国」(6月16日〜20日)にとりくみます。いまなぜ韓国・朝鮮か――日本近代史が専門で『日本帝国主義と満州』などの著作がある元名城大学教授の鈴木隆史さんに聞きました。
昨年は韓国併合100周年、今年は柳条湖事件(満州事変)80周年という節目の年ですが、清朝を倒した辛亥革命からも一世紀になります。
明治維新政府の最初の目標は大陸進出への足がかりとして朝鮮を取り込むことでしたから、今回の旅行は日中友好運動の視野を東アジアに広げるうえで県連にとっても大きな収穫となるでしょう。
不平等条約
明治維新後、日本は台湾出兵で近代史では初めての海外派兵を行い、1875(明治8)年に朝鮮の王都漢城(現在のソウル)の表玄関にあたる江華島を砲撃しました。武力で朝鮮に開国を迫り、翌76年には日朝修好条規(江華島条約)という不平等条約をおしつけます。
欧米列強からの外圧を逆手に国内では「征韓論」が声高に叫ばれ、世論も東アジアを踏み石にして列強に加わることを当然視していました。
89年には天皇を頂点にすえた大日本帝国憲法を発布します。
94年、朝鮮全土に拡大した農民戦争(東学党の乱)を契機に日本も清国と朝鮮の支配をあらそって出兵・干渉し、日清戦争に直結していきます。
この戦勝で日本は清国に下関条約をおしつけ、台湾・澎湖列島の植民地化と遼東半島の割譲を掌中にします。ここに初めて植民地を持ち、後発の帝国主義国にのしあがります。
日英が同盟
1900年ごろからは朝鮮半島をめぐるロシアとの対抗が政府の重要課題でした。02年には日英同盟を結びます。
朝鮮王朝の実権を握っていたのは、ロシアと結んで日本を敬遠する、国王高宗の妃の閔妃(びんぴ)一族でした。05年、日本軍守備隊は朝鮮王宮を占領し、やくざを使って閔妃と宮内大臣を惨殺しました。
義和団事件
折から中国では反帝国主義運動の義和団運動が拡大し、日本は1個師団を派遣して鎮圧の干渉戦争に加わり(北清事変)、列強8カ国連合軍の主力となりました。
他方、ロシアは義和団事件に乗じて「満州」を占領。日本は日露戦争に突き進み、米英の間接的な支援もあって辛勝します。
ポーツマス講和条約で日本は朝鮮の単独支配権を確立し、南樺太を奪い、遼東半島の租借権と東清鉄道の所有権などを獲得します。
こうした中で三次にわたる日韓協約をへて、1910年の韓国併合条約へとすすみ、日本は韓国・朝鮮の植民地化を完成させたのです。
満州事変へ
韓国併合から満州事変までの20年間、日本は朝鮮半島を本格的な中国侵略のための食糧、労働力の補給基地、軍事後方基地、輸送動脈に作り上げたのです。
満州事変を起こすと、朝鮮に駐留していた日本の「朝鮮軍」が天皇の裁可もなしに越境して、関東軍とともに満州事変を拡大したことにも、朝鮮支配の意味がよく分かります。
今回の旅行の成功を願っています。