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県連・支部だより

新会員訪問

今井禮吉さん

   県連の「新春のつどい」に初めて参加したのを機に南支部に入会した今井禮吉さん(96)を、名古屋市港区の自宅に訪ねました。

家の塀には日本共産党や民主商工会はじめ民主諸団体のポスターがびっしり。門を入ると「侵略戦争反対」など手書きの看板もという徹底ぶりです。
「遠い所をわざわざ足を運んでいただき、恐縮です」
県連では最高齢の会員。話す口調はしっかりと明快です。

 終戦時は主馬(しゅめ)寮=旧宮内省の一部局で、馬車・車馬装具の管守、馬匹の飼養調習などの事務をつかさどった=厩務科獣医部の職員として、昭和天皇裕仁の愛馬の蹄鉄(ていてつ)の世話などにあたっていました。

 もともと埼玉県で蹄鉄業を営んでいたところ、26歳の1941年3月、拝命で皇居勤めに。とはいえ「口外無用」で、世間には内緒でした。

 「私は技術の精進のことだけで頭がいっぱいで、当時の社会一般の戦争賛美の空気には染まらなかったですね」約百人いた職場は無菌室のように外部とは遮断されていて、天皇や東条英機首相(当時)らも間近に見ていたとか。

 天皇が神様などと思ったことはありませんでした。
 「ただ兵役免除幸いでした」今井さんが戦争のむごさを意識したのは、45年3月10日の東京大空襲の後の5月29 日の空襲で、神宮表門辺りに積まれた焼死体の山を目の当たりにしたとき。<勝てない戦争をいつまでつづけるのか…>と疑問を持ったそうです。

 「玉音放送」を職場の集合室で聞き、なぜか解放感を覚えたとか。すぐ辞表を出して埼玉県に戻り、蹄鉄業を営み始めました。

 50年に名古屋に移り蹄鉄業の今井製作所をつづけてきました。民商の役員なども務め、医療生協・協立病院の立ち上げにも尽力。ことしの「新春のつどい」には古い友人の会員Tさんに誘われて参加し、草の根の日中友好運動に感銘をうけて入会を決意したとのことです。

岩田芳子さん

   中国での日本語指導者の体験から私は新しく日中友好協会緑支部へ入会させていただきました。どうぞよろしくお願いいたします。

昨年三月まで、言葉の重みを常に感じながら日本語指導者として中国に携わり、十年余り過ごしました。その間、二年・一年・半年と何回かに分けて、中国各地へ赴任いたしました。私自身の体験等を少しお話しさせていただきます。
 現在の不安定な世相を早く脱皮し、落ち着いた友好が復帰できることを希望しております。過去の歴史を考え二度と繰り返してはならない諸問題を踏まえ、友好を深めることができるようにと願っているのは、日中両国の多くの人々の相通ずる気持と思っております。

 大国である中国での生活も、赴任先の地方によって大きく違いがありました。まず言葉も違いがあり、私の中国語が通じず彼らの言葉も判らない様なこともありました。食文化も大きく違い、想像・理解していた筈なのに、実際に直面すると戸惑うことも多々ありました。その様な生活の中で数年前にも反日感情が湧き出た時がありました。

赴任先の学校で 日本語科の学生たちが「先生大丈夫、心配しないで。私達が守りますから」私はこの言葉を聞き『友好を表現する言葉』と、とても嬉しく又心強く思ったことを忘れません。この様なチャンスに恵まれた事に感謝をしながら、ささやかな友好の架け橋になれるようにと心掛けた毎日でした。他県から移転してまだ日も浅い私ですが、『私にできることは何か…』を求めながら、お役に立ちたいと願っております。

  <2011.3.15>

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