− 県連・支部だより
失って見えたおやじの姿・・・息子の思い(下)
五年前、病気を患い、それを機に日中の事務局長を降りると聞かされたときは耳を疑いました。家族はみな、死ぬまで日中を続けるものと思っていましたから。
しかし、療養もそこそこに日中友好の記録を残すのだと再び活動を始めた父は、たとえ一線を退いたとはいえ、昔と変わらず、精力的なたくましい父がそこにはいました。そんな父でしたが、相変わらず糖尿病、狭心症、結核のため、年に何度も入院を繰り返しました。
父はここ何十年も日記を書きためています。それを読むと今年に入ってから体調の思わしくない日が特に多くなり、体力だけではなく、気力の面でも気弱になっていたのが伺われます。なぜ家族としてそこにもっと早く気づき、手助けしてやれなかったのか、秋以降、咳に苦しむ父を見ていながら、なぜもっと早く肺炎に気づいてやれなかったのか、悔やみきれない思いでいっぱいです。
ほんとうに父は日中が好きで、人が好きで、自分のことは後回しにして、人のためにかけず り回ってきた人生だったろうと思います。
通夜の際、お話しさせていただいたとおり、父は父なりに日中史をまとめようとしていました。そのための資料と覚しきものも残されています。
僭越ながら、先生には是非父の分までお元気で長生きしていただき、父が出来なかったことを完成させていただけたらこれ以上の幸いはありません。今日、小用で日中に立ち寄り、博物院からの弔電を八木さんからいただきました。中国語にはそれほど明るくない私でしたが、大意はなんとか読み取れました。それを読み返すたび、何度も熱いものがこみ上げてきました。
先生からの返信を拝見し、それが先生が先方に送ってくださった同日であることに、更に感動が深くなりました。父のためにお骨折りをいただき、心から感謝いたします。ありがとうございました。 最後に父らしいエピソードをお知らせしたいと思います。父は入院して5日ほどたった頃から、強い薬と肺炎のため酸素を十分に取り込めず、先生に最初にお見舞いに来ていただいたあと、意識が混濁するようになりました。たまに口にすることもうわごとのような支離滅裂な話ばかりになったある日、しきりに利き腕である左腕を高く上げようとするのです。もう箸も自分で持てない状態でしたので、上げようとする腕を押さえ、何か欲しいのかと聞いたところ、
「乾杯の音頭をとらなくちゃいかん」とそれだけははっきりと言いました。おそらく11月の懇親会のことを思い出していたのだと思います。
そういえば杵渕さんにお見舞いに来ていただいた時も日中の話だけはしっかりと会話できていたのも父らしいと思います。杵渕さんから「また役員会で会おうね」と言われ、嬉しそうに笑ったのが、父の最後の笑顔でした。
私自身は父から何も受け継いでやれませんでした。行動力も信念も父ほどには持てない情けない息子です。
どうぞ日中の皆様にはこれからも真の日中友好のために、父の分までご尽力いただきたいと思います。
微力ながら何かお力になれることがあれば私もできるかぎりのことはさせていただく所存です。
日中の益々の発展とご活躍を祈念いたします。
2010年11月24日 大橋 浩二
<2011.2.15>