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【11.01.25】失って見えたおやじの姿・・・息子の思い(上)

失って見えたおやじの姿・・・息子の思い(上)

石川賢作・会長に送られてきた大橋浩二さん(故大橋満男氏の長男)の手紙を紹介します。
 

10年11月13日畑田講演会場で

 入院してからずっと父に付き添っていました。
 出来る限りの時間、病院にいて、食事の介護をしたり、身の回りの面倒を見るようにしました。それは日に日に弱りゆく父と向き合う時間であり、逃げ出したい衝動にすら駆られました。

 おそらく、自分の人生の中で、最も濃密な父との二週間だったと思います。
 私が幼い頃、平日は夜10時を過ぎなければ帰宅せず、朝も私たちが学校に出かける時間まで寝ている父でした。
 日曜日もほとんど日中や党の用事で出かけ、家族で遊びに出かけるなど年に1、2回だったと思います。

 それでも不思議と父との思い出は沢山あります。それは例えば、おそらく新婦人の料理教室に講師か何かで呼ばれたのでしょうか、 大勢のご婦人方に囲まれて「大橋さんの子どもさんなの、似てないわねえ」と声をかけられ、 それを聞いた父が嬉しそうににやにやしていたのを覚えています。

 そうやって遊びに連れて行く代わりに、私をよく集会やら会議やらに連れて行ってくれました。日中の事務所にもよく連れて行ってもらいました。今、私が所属している私教連のあるビル、以前の単一会館は特に印象が深く残っています。

 うなぎの寝床のような細長い部屋の奥にある机に座り、さまざまな人たちと話をしていました。子どもの私には何の話かもちろんわかるはずもありませんが、どんな人にでも弾けるような、あの「かっ、かっ、かっ」と黄門様のように笑う顔を覚えています。

 思春期頃は母が精神的に弱っていた時期でもあり、収入面も含め、家のことを後回しにする父にずいぶん反発しました。

 あとから人に聞いた話ですが、父とけんかをした際に私が口にしたことを、ずいぶん気に病んでいたと聞き、ひどいことを言ってしまったと未だに後悔するときがあります。

 父の仕事を理解できるようになったのは、大学に入り、年末に栗の仕事を手伝うようになってからです。

 日中の事務所にいると、社会的な地位や境遇に関係なく、正に多士済々な人たちが集まってきます。それも特に何か用事があるというわけではなく、父と話がしたいがために寄ってくださるのです。その許容力というか包容力の大きさに圧倒されました。

 もちろん、活動家として超一級であることは知っていました。
 しかし、その活動を支えてくださっていたのが、そういった父が作り上げてきた人脈一人一人の方々のおかげだと理解できたのもその時でした。

 そういえば若い頃、母になぜ父と一緒になったのかと聞いたときも、「あの人は大陸的な人だから」と答えていました。当時はどんな意味なのかわかりませんでしたが、その言葉の意味も今なら理解できます。
(つづく)

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