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時事講座と近現代史センター

【10.1.05】新春の願望 中井政喜

新春の願望  中井政喜(名古屋外国語大学教授)

 私は話題が乏しいので、自分の仕事について今行おうとしている内容を、若干書かせていただきます。
 
 それは、魯迅(1881-1936)の『朝花夕拾』に現れる民衆像です。『朝花夕拾』(北京未名社、1928・9)は、魯迅が1926年に書いた回想を主とする散文を集めたものです。私はとりわけ、「阿長与『山海経』」(1926・3・10)と「無常」(1926・6・23)に現れる中国の民衆像とそれに対する語り手魯迅の語り方を取りあげ、論じる予定です。その理由は以下のとおりです。
 
 (1)阿長は語り手の乳母です。阿長のような欠点も多いけれども、深い優しさもある、あるがままの民衆の姿は、1926年の段階ではじめて明確に魯迅の作品に現れました。
 
 (2)また、散文「無常」では、中国の民衆の信仰の中に現れる、人の魂を抜きにくる「無常鬼」を取りあげています。民衆はこれを恐れながら、しかし無常鬼の人情深いところ、率直で議論好きなところ、ときには閻魔大王にも抵抗するところを愛します。無常鬼の姿は、民衆の精神を体現した存在でもあります。
 
 私は、1925年以前の魯迅の作品において、民衆は二つの姿とって現れる場合が多い、と考えます。一つは麻痺した精神をもつ愚民であり(例えば、阿Qのような)、もう一つは素朴な民です(礼教に汚されていないような。「祝福」の祥林嫂はその一人と言えます)。
 
 ではなぜ、1926年の段階で、魯迅の作品にはじめて、『朝花夕拾』に描かれるような民衆像、あるがままの現実の民衆像が出現したのでしょうか(回想の形であるにしろ)。そのことが、魯迅にとって何を意味したのでしょうか。
 
 この点を明らかにすることが、今の私の課題です、そして今年の願望です。思うように勉強時間がとれないことが、今の私の大きな悩みです。誰も同じかもしれませんので、年寄りの愚痴にすぎません。

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