日中文化交流

中国の旅

台湾旅行記(中)

 前回から時間は少し戻るが、一日目の夕食前の夜の散策では「士林の夜市」に行った。鮮魚や野菜・果物などの食材も豊富で、食堂の多い市場は活気に満ちていた。宿泊は「国賓」というホテルに連泊。

新緑がまぶしく

 二日目はまずホテルで朝食。中国に来たら朝粥と決めている。デザートのフルーツが豊富なのがうれしい。もうスイカが食べられて感激。ホテルの前の街路樹はまだ2月というのに新緑がまぶしい。午前中は孫文をたたえる「國父紀年館」と蒋介石をしのぶ「中正紀年堂」を見学して「二二八和平紀年公園」で午後に始まる「228記念集会」までの時間を過ごした。※《訂正》前号のこのあとの■228記念集会の記述で、=終戦後、中国本土からやって来た『「祖国」の軍隊』は→『「祖国の国民党軍」』に、(中略)「犬(日本)が去って豚(『中国』は→『国民党』に)、「『先住民』→『台湾民衆』」にとって=に各々訂正したい。

台北から台中へ

公園内の台湾博物館には、日本の総督の立像まで残されていた。 
 三日目は台中方面に移動のため、早めに出発。バスは高速道路を一路南下する。カメラで案内板の地名を拾う。台中、霧峰、草屯、埔里…中でも「國姓」というのはどこかで聞いたような、と思い帰国後確認したら、江戸時代大好評の近松門左衛門の「国性爺合戦」(国性爺=鄭成功)のゆかりの地で、彼の像が建っているという。

台湾大地震の痕跡

 沿道には南国的な檳榔(ビロウヤシ)畑が続く。前方に突然アルプスのような美しい峰々が現れた…ところが、これは1999年の9・21台湾大地震による地滑りの跡だった。このとき、日本の救助隊が最初に駆けつけた。それで、今回の東日本大震災でも台湾の人たちはいち早く救援物資を届けようとした。ガイドの李さん「日本の地震学者も案内しました。土地が大きく移動しました。自分の畑はどこへ行った?と言う有様でした」と。バスの中では「霧社事件」を題材とした映画『セデック・バレ』を観た。往復4時間余、画面が小さく映像悪くしかも字幕、そして辛い中身。…疲れた。でも頑張って観た。昼食は「大寶埔里風味餐廳」で郷土料理を食べた。ご飯に野菜炒めが中心で、タケノコに似た「まこも(筍)」は印象的だった。

「人止関の役」

 昼食後、山に向かい、かつて難所であった「人止関」を見た。先住民の暮らしぶり…高床式建築、民族舞踊、頭目(族長)の就任式の様などが写真で展示してあった。現在は南投県仁愛郷霧社区と称されるこの地で徳克族による「人止関の役」と呼んでいる「霧社事件」が起こった。日本人による長期の強圧的な権力統治に耐えかねた頭目の莫那親子が主導し、《※一部前回に重複》1930年10月27日早朝、武装して霧社公学校の運動会を襲撃し、百数十名を殺害、日本側も報復し、700名を殺害した。霧社は台湾統治の要衝であり、この事件は日本帝国の台湾支配史上最大の汚点といわれた。 車中で観た映画はもちろん脚色されているが、今は変電所となっている小学校跡のすぐ横まで密林は迫り、何が飛び出してきても不思議でない地形だ。
 余談だが近くのトイレに「請疼惜打掃人的辛苦、請尊重後用者的利益」と書かれていた。さすが礼の邦である。

快適な湖畔の宿

 やがてバスは台湾随一の景勝地・日月潭に進む。湖の周りに遊歩道が整備されつつある。宿の近くの駐車場に着くと珍しい樹が目に止まった。樹にいくつか綿菓子のようなのが下がっている。「木綿(もくめん)」の木というそうだ。湖畔の宿は快適だった。遊覧船乗り場には夕方というのに列ができている。朝な夕なの景色は素晴らしい。李さんによると、夕方が低く朝は満水になる。ここは水力発電でも有名で、夜の内に余った電力で揚水しておくのである。

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