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長春・家田レポート

新京特別市記念公会堂は『长春近代建築図鑑』(2011年)によれば、大正天皇即位10周年を記念し1917年に設計が開始され22年竣工した。最初の公会堂は規模もあまり大きくなく、地上2階寄棟造りの屋根で、正面入り口には2階上まで届く6本の円柱があり、屋根の上に天窓の装飾があった。そこでは映画の上映もされたようであるが、日常的には「長春商品陳列所」として使用されていた。 しかし、39年焼失、それを機に元の外観を残しつつ大規模な公会堂として再建、41年竣工。公会堂部分1390?、食堂及び講堂部分3795?、講堂の座席1200、回り舞台を持つ立派な公会堂となった。ここで高級軍人の葬儀も行われたようである。光復後、国民党政権下では中山記念堂と改称、宋美齢がここで慰問・発表をしたとのことである。 08年には修復工事がなされ、現在では「長春話劇院」として使用されている。
 そこから5分ほどで南広場に出る。その正面南に、新京南広場電話交換局及び放送局の建物がある。竣工はいつなのか分からないが、地上3階建て、一部5階建て、地下1階の建物の外観は昔のままであり、現在は中国ユニコムに使用されている。

  旧南広場放送局建物

 その後、埃の舞う中を、南京路(旧大和通)を進み、天津路(旧室町)を右折し、天津路小学校(旧大和通国民学校)の北へ入った。学校の中ほどを北に折れて路地を進むと、左手に少し変わった建物が目に入った。近づいて見て驚いた。2階の窓の形や1階の柱の感じから、確かに大きな日本の御堂だ。
 『新京市街地図』康徳6年(1939年)を見てわかった。「太子堂」だ。現在は倉庫として使われているようだが、階段があるところを見ると、2階部分も何かに使われているようだ。しかし、鍵がかけられ中も覗けないためによく分からない。この太子堂の西に西本願寺があったはずだが、現在では跡形もない。
 それにしても、いったいなぜ西本願寺内に太子堂が作られたのか。Wikepediaによれば、親鸞を開祖とする新潟の浄興寺の当初の本尊は親鸞自作の聖徳太子象であったそうだから、それが関係しているのかもしれない。いずれにしても、日本が建てた寺院で現在も長春に残っているものは、東本願寺とこの太子堂だけということになろうか。横浜正金銀行は分からなかったが、この太子堂の発見は予想外だった。
 しかし、街歩きの度に思うのだが、過去の日本の誤りと罪の深さに心が重くならざるを得ない。      (おわり)

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