日中文化交流

中国の旅

紹興に魯迅の生家を訪ねる

紹興、烏鎮の旅

 翌日、西湖の南、銭塘江河畔の小高い山の上に立つ13層の六和塔を見学する。

年に一度、陰暦8月15日銭塘江では海からの巨大な逆流が発生する。この現象は南アメリカのアマゾン川でも起こる。世界で二ヵ所だけ。銭塘江の河口は東シナ海にラッパ状に開いている。

この地形の特殊性と月の引力の関係で生ずるとのことである。昔、土地の人は、その理由がわからず銭塘江の逆流の恐ろしさを静めるために六和塔を作ったとのことである。バスから降りて小高い山の階段を登り、さらに13層の塔をのぼるのは楽ではない。塔は木造であり、窓には当然ガラスはない。

 天辺に上ると眼下に銭塘江とそれにかかる大きな橋が見える。

  六 和 塔

 私は杭州の土産に、そこで絹張りの団扇を二つ買った。描かれているのは、六和塔である。背景に銭塘江とその向こうに遠く山々である。もう一つは西施が梅の花の下で椅子に座り筆を握っている様子である。一つ10元。

 ここで杭州美人のAさんと別れ、紹興酒で有名な紹興に向かう。紹興は魯迅が生まれたところであり、周恩来の故郷でもある。魯迅は毛沢東が高く評価した有名な文学者である。

本名は、周樹人であり、周恩来と遠い縁戚関係がある。魯迅の祖父は土地の有力者であり、官僚であったが父の代で没落した。

家、屋敷の相当部分は売り払われたが、後に買い戻され復元されている。魯迅の生家として、いまは多くの観光客が訪れている。

魯迅が子どものころ屋敷内に畑があった。そこで遊んだとされているが、いまも野菜畠である。

魯迅の小説「阿Q正伝」のQは何の意味か、はじめてしった。植民地時代の中国人は弁髪をしていた。その頭格好をもじってQとしたのである。当時の平々凡々の中国人の意味であろうか。

昔々それを読んだのでほとんど忘れてしまった。どんなに貧乏でも運がわるい、自分の努力が足りない、他人に頭をなぐられても孫にたたかれたとおもう。そうすれば現実を忘れることが出来、腹も立たない。これは百年前の中国の話である。いまの、どこかの国と似ているのではないか。

 周恩来の生家も訪ねたが、正真正銘の紹興酒の酒倉へと先を急ぐ。シアンホン老酒の国営の酒造会社である。構内に入ると独特の香りがする。製造現場は見せてもらえなかったが、カメが山と詰まれた倉庫を案内してもらった。

カメの蓋は、竹の皮?で覆い泥を塗ってしっかり蓋をする。そして何年も寝かせるのである。

蓋は呼吸をしているので年月と共に中身は少しずつ減っていくが味は良くなると店員が解説する。海外にも輸出しているけれど、ここのものは特別に美味いといって特別室に案内された。

小さいガラスの盃で試飲させてくれた。5年もの10年ものである。飲む前から、両者の違いは茶色の濃淡でわかった。味はもちろん違う。私もつい宣伝に乗せられて10年ものを二瓶土産に買ってしまった。

30年ものは景徳鎮の美しい陶器に入れてある。それだけでも飾りになりそうである。30年ものを買った人もいた。

  竹の皮の蓋で、屋外で熟成

 旅行の最後の夜は、上海と杭州の中間の水郷地帯の古い街烏鎮である。

バス停からホテルに行くにも水路の船に乗らなければならない。伝統の町並みを生かすため高層建築はない。2階建てまでである。

水路に沿った古い民家は、民宿の看板がかかっている旅館である。日本の民宿と同じか知らないが。そこに住んでいたもともとの住民はすべて他に移住し、伝統を維持した形の観光地になっている。

湿地帯に石を運び石畳の通路を作っている。水路の巾は10メートルぐらいである。日本でいうところのめがね橋が100メートル置きぐらいにかかっている。

日本の石造りのめがね橋と違うところは、橋脚があることである。橋脚の間は長い長方形の石を数本渡している。千年以上前によくもこれほど沢山の石を運び水郷の町を作ったものである。

水路をはさんで両岸に旅館と食料品、雑貨や土産ものを売っている。水路の脇にこぎれいな喫茶店もある。中国茶を飲ませるところであろう。

水路をはさんだ石橋を交互に渡りながら散策した。つぎに機会を作り、是非ゆっくり見物したいものだと思った。

  水郷の町・烏鎮 水上を行きかう観光船や小舟

 ここでの昼食はおいしかった。紹興酒は安くて美味い。南京、杭州の高級レストランの値段の1/4以下である。

 幸い旅行中晴天にめぐまれた。烏鎮から上海空港にバスで急ぐ。ついた頃から雨が降り出した。

 帰宅したのは11時を過ぎていた。いい旅であった。
     鳥居 達生

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