日中文化交流

交流

石川賢作・王利民 新春対談

 日中県連はここ数年、夏季語学留学など北京第二外国語大学(「二外」)との協力関係を深めています。この大学で国際交流学院長も務めた愛知学泉大学客員教授の王利民さん(58)は、1990年代前半から、石川賢作県連会長(当時、学泉大経営学部長)ととともに「二外」との交換留学の道を切り開いてきた親しい間柄。2013年を迎え“石川・王新春対談”の一席を設けました。

石川 2013年、新年好!

王 明けましておめでとうございます。日中友好新聞の読者の皆さまに心から新年のごあいさつを申し上げます。  

長いつきあいに

―お二人の出会いあたりから入ってもらいましょうか。

 石川 「二外」にぼくは1985年の8月に初めて行ったんです、30人の団体を引率してね。そのとき、北京空港に出迎えてくれた女性の日本語がとっても流暢なのに驚きました。かすかに“ハマなまり”があって、横浜育ちの人でした。この人が、後に「二外」の副学院長になった李翠霞さんです。
       
 王 彼女もそうですが、当時の日本語の教師はたいてい帰国華僑だったですね。私は石川先生とは1984年に初めてお会いしました。先生がいらしたのは8月で、10月に私は名古屋大学の任期を終えて中国に帰っていますから。

 石川 というと、いずれにしても84、85年からのつきあいなんだなぁ。

 王 長いですよ、28年余になりますから。

名大教師として

 ―名古屋に最初に来られたころのことを聞かせてください。

 石川 王先生が最初に名古屋に来られたのは、いつ、どんな形でだったんですか。

 王 83年6月に、名古屋大学の外国人教師として赴任したのが最初でした。日本に初めて来たのは81年の3月1日から30日まで、「大平学校」の第1期生120人で日本政府に招かれてですね。観光もかねて結構あちこち行きましたよ。あのときは、名大の平井勝利先生が受け入れ側の副主任でした。

 石川 「大平学校」というのはよく聞くけど、正式には何というんですか

 王 正式には日本語研修中心(センター)といい、日本語教師養成校で、北京日本学研究センターの前身です。79年に大平正芳首相の提案で計画され、80年からの5年間で、中国各地の大学の日本語教師約600人が日本語教育や日本事情に関して集中的に研修を受けています。

 石川 ぼくは90年代前半に、中国の政府関係の研究機関との共同研究があって、当時、郷鎮(ごうちん)企業=農村地域の企業=というのがあったでしょ、農民のね。そこへ1人で乗り込むときもあったんですよ。
 ところが、こちらがしゃべる中国語は通じるんだけど、農民の話す言葉がなかなか分からない。それでテープにとって、たとえば西安付近なら、彼らの言葉が分かる西安や陝西省出身の学生たちに起こしてもらったり、「二外」にはたいへんお世話になりました。  

「宋詞」の一節

 ―最後の名女形・梅蘭芳の色紙について。

 石川 ところで、秦明吾先生の奥さんで京劇に造詣の深い人がいたでしょう。ぼくは56年の訪日京劇団(団長・梅蘭芳)の名古屋公演のとき、鶴舞の公会堂の楽屋で警備にあたっていて、最後の名女形といわれた梅蘭芳に書いてもらった色紙を2枚持っていますけど、一つは漢詩で知っていた句で、もう一つのが出典が分からず、秦夫人に教えてもらって「宋詞」の一節と理解できました。

 王 80年代から90年代半ばまでは「二外」の中国語の留学生は日本人がいちばん多かったですね。それが、92年に中韓の国交が結ばれて、90年代半ばから韓国の学生が年々増えてきて、いまでは過半数を占めています。

古代の城壁都市

 ―一緒によく中国の名所旧跡を訪ねられていますね。

 石川 先生には中国各地へ旅行に連れていってもらったけど、古代城壁都市の平遥(ピンイァオ=山西省)、それに承徳(チョントー=河北省)がとくに印象に残っていますね。

 王 どちらも後に世界遺産に登録されましたが、平遥は平遥古城として中国で最も整っている古都の一つ。承徳は清代の離宮の避暑山荘や外八廟がある国家歴史文化名城としてつとに有名です。

 石川 平遥では明代から清代にかけての中国の典型的な城郭、街路の配置、商店や住居などの伝統建築の保存状態が良好なのに圧倒されました。

ホテル並み宿舎

 ―この間の「二外」の発展ぶりはどうですか。

 石川 80年代半ばの「二外」のキャンパスと近ごろとではずいぶん違いを感じます。当時は停電があって、学生たちは試験前にはロウソクを貸し合ったり、朝早くから外に出てブツブツ音読していました。いまはホテルのような宿舎が整って、プールもある。この発展の速さ…。

 王 2000年以降です、よくなってきたのは。81年に初めて京都外国語大学と協定を結び、それから留学生を募集しだしました。特長として言えるのは、そこで中国語を教える教師はみな外国で教えた経験を持っていることです。

石川 ところで、王先生の好きな食べ物は何ですか。

 王 甘いもの以外は何でも…。刺身も最初から違和感はなかったし、すき焼も、生たまごに少し醤油を差して食べます。

 石川 先生は旅行好きで日本国内の見聞も広いけど、いつか北見大学から話があったでしょ。

 王 94年ごろフェリーで北海道に行き、車で道内を一周しながら北見にも行きました。沖縄には飛行機で行き、レンタカーであちこち回りました。いろんな地方の温泉も好きです。  

アニメから入る

 ―中国の学生が日本語を学ぶ動機などを…。

 石川 中国人の学生が日本語を学ぶ動機はいろいろだけど…。

 王 やはりアニメですね、若い世代では動漫(ドンマン)を勉強したい人は多いです。「二外」で日中の学生を比べたとき、日本の学生は知識の幅が広い。一方、中国の学生は専攻で深い知識があるという違いがみられました。

 石川 「二外」から学泉大に最初に来た留学生は遵義(貴州省)の貧しい農家の出身で、よく勉強していて、四日市で就職しました。

 アルバイトはしてはいけないという決まりで、1、2期生ぐらいまでは守っていたけど、「やっているらしい」という話が出てね、「まあ、いいか」と黙認の方向に変わりましたけど。

 王 バイトは、日本の社会を実地に勉強するには私はいいと思いますよ。もっとも、学泉大は条件がいいから経済的には必要ないんですが。

名誉教授の経緯

 ―「二外」名誉教授の称号授与のいきさつは。

 石川 私が95年に病気になって北京に行けなかったとき、学院長が王さんとともに急きょ来日されるというので小牧空港まで出迎えに行ったら、「名誉教授に推された」と聞いて驚きました。その経緯を知らないんだけど、どういうことで?

 王 先生は「二外」名誉教授の第1号ですよ。多年の貢献とご苦労に報いなければ、と私が提案しました。
   
 石川 病気が治って「二外」に行ったとき、段建国党書記から会食に招かれ、入り口で「久仰大名(ジウヤンダーミン)=ご高名はかねがね承っております=と言って握手され、この言葉は以前から知っていたけどびっくりしました。期限を尋ねたら「終身です」と。それで名刺にも明記して活用させてもらっています。

「二外」の開学40周年のとき、招かれて記念講演をしました。長くやってきたことが評価されたのかなぁ。

愛知でも60年に

 ―“草の根”の日中友好運動をさらに…。

 石川 ところで、私たち日中友好協会は草の根の友好運動を60余年すすめてきていて、愛知県の運動も来年で60年という節目を迎えますが、王先生はどのようにごらんになっていますか。

 王 去年は中国各地で「反日デモ」が起こり日本ではメディアの過剰な報道と相まって国民の嫌中感情を増幅させましたが、あれはごく一部の跳ね上がり分子で、まともな若者じゃない。普通の中国人は共感するどころか冷静に、批判的に見ています。

 そうした大変な状況の中での皆さんの地道な活動には、中国人としてほんとうに頭が下がるし、心から感謝しています。

 石川 師走の総選挙で安倍自公政権が復活しましたが、私たち草の根の日中交流はこの先どんな逆流があろうとも「不再戦・平和友好」の初志を貫いて歩みつづける決意でいます。このことをしっかり確認しあいたいと思います。

 王 まったく同感です。私もあと2年で定年ですが、中国に帰ったら皆さんの運動に学んで草の根の中日友好・交流の活動をすすめていきたいと考えています。  

このページの先頭にもどる

楽しさ広がる日中文化教室

日中文化交流

不再戦平和の活動

県連ニュース

県連活動ニュース

日中友好協会の沿革と概要

日本中国友好協会