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中国の旅

南京市毘蘆寺(びるじ)を訪ねて(上)

千手観音 いつでも里帰りを

 日中愛知 辛亥革命100周年・武漢&南京旅行団は3月28日朝南京市の大寺院毘蘆寺を訪れました。

このお寺は中国文化大革命の前は、南京市だけでなく中国を代表する大寺院の一つです。

「毘蘆寺(びるじ)」という言葉で、これに似た言葉が奈良東大寺にあります。奈良の大仏様です。あの、奈良の大仏様の本名は「毘盧舎那仏」。(宇宙の真理を体得された釈迦如来の別名で、世界を照らす仏・ひかり輝く仏の意味です)

私はこの「世界を照らす意味」を持つ南京市毘蘆寺を訪問するのは2回目です。2年前の日中友好協会愛知県連主催の「杭州・黄山・南京の旅」で1度訪問しています。2年前と比べると大雄殿という立派な建物が入り口近くに建てられていて、毘蘆寺の復興を多くの南京市民や仏教徒が願っている事が伝わってきました。(毘蘆寺は「文化大革命」のとき消滅しています)

建物の復興は南京市民や仏教徒により少しずつ再興されてきていますが、この人たち(毘蘆寺の僧たちを含めて)だけでは、解決出来ない問題が残っています。それは、71年前(1941年)にこの毘蘆寺からもちだされた仏像(千手観音像)が名古屋市千種区の平和公園内の平和堂の中に人の目にほとんど触れられずひっそりと安置されていることです。

年4回春分・秋分の日と花まつり(お釈迦さまの誕生日4月8日)の前後3日間、お盆のみ平和堂の中で公開されています。平和堂の前の案内板では、1941年の戦争時代に、名古屋市千種区のお寺に在った十一面観音像をこの毘蘆寺に送り、その返礼として毘蘆寺の千手観音像(今から130年程前の清朝末期に造られたと思われます。)を友好的に交換したという意味が書かれています。でも、少し変です。

 この当時の南京政府は日本の軍隊の後押しで樹立した、カイライ政権である汪兆銘政府であったはずです。この汪兆銘政府は決して南京市民の支持を得て樹立された政権ではないはずです。その当時日本軍隊が蒋介石政府と戦うために立てた、日本軍隊のためのカイライ政権です。このことは高校の近現代史を少し勉強した人ならすぐに分かります。もちろん、日本から持って行った十一面観音像も軍隊の徴用で持って行った事は、容易に想像できます(多くのお寺が鐘や門の鉄の部分や国民の鍋・釜も徴用されています)。

汪兆銘政府や日本の軍隊の南京市民への宣撫工作(占領地などで、占領軍の方針をよく知らせて人心を安定させること)としてこの仏像を利用したことは、案内板に書かれていなくても容易に思い浮かべることが出来ます。友好的に交換したと考えるには非常に無理があります。
 (つづく) 松浦 均
 

千手観音の写真飾り里帰りを待つ

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