日中文化交流

中国の旅

引き揚げ少年たちの思い出の地をたどる

反戦の思い新た

 1943年旧満州で生まれた私。両親は幼い私に「旧満州の社宅は冬は寒く外に出ると鼻水がすぐ凍るけど、部屋は蒸気で暖かく快適だったこと」そして「1946年引き揚げの時は、葫蘆島から佐世保へ上陸、佐世保の海軍兵舎で一週間収容され、検疫うけてから貨車、客車を乗り継いで故郷の熊本に帰郷したことなど」折々に話してくれました。

 2011年夏、「日中友好新聞」の折り込みで、引き揚げ65周年「旧満州」思い出の旅の企画を知りました。旧満州で過ごしたのは3歳までで、当時のことはほとんど記憶にありませんが、一度は訪れてみたいと思っていました。 牡丹江からハルビンに向かう列車では乗り合わせた中国の家族連れの方たちは、笑顔で日本人の私たちに接してくれました。

 牡丹江からハルビン、長春、瀋陽と長い距離を移動、いよいよ生まれた撫順に近づくにつれ胸が躍りました。母が書いてくれた地図の家並みなどは残っていませんでしたが、昔はこの辺りは「松岡町」だったと現地在住の方に確認できました。私の誕生の地が見つかり、ツアー同行のみなさん全員が喜んでくださいました。《感動》《感動》でした。

 731部隊、柳条湖事件など殺戮の限りをつくした旧日本軍。今回、私たちはバスや列車での移動でしたが、日本軍に放置された開拓団の人びとは幼い子どもを連れて命からがらの遠い道のりの移動で、どんなに苛酷だったことか。日中両国の人びとは戦争に翻弄されたのだと再確認しました。

 今回は思い出の旅でしたが、反戦の思いを強く感じた旅でした。

奥村 桂子  

思い出の旅に参加して

私は1941年に旧満州国興安東省布特旗博克図(現中国内蒙古自治区プグト)で生まれ、その後、黒龍江省の東安市(現蜜山市)に転居した。

1945年8月9日、ロシア軍が侵攻してきた時、父35歳、母30歳、姉8歳、私4歳、妹3歳、弟1歳の6人家族だった。「すぐ逃げろ」と命令され、汽車に乗ったものの一駅も過ぎない辺りでロシア軍の空襲を受け、命からがら逃げだした。父は妹を前に括り付け私を背負い、母は弟を前に抱きリュックを背負った。姉は大人と同じようにハルビンまでの45日を歩き通した。父母はこの間の出来事を「この世の地獄だった」と、繰り返し語っていた。

 私が死んでから「あの人も引き揚げ者だったらしい」と言われるより、たとえ僅かな記憶でも「私は引き揚げ者だ」と自分の口で語る方が、説得力があるように思われ、ここ数年、焦っていた。

 今回の日中友好協会の企画はまさにタイムリー。しかし、近年の中国の変貌は目まぐるしい。昭和21年の引揚げまで約1年間住んでいた、ハルビン市中央大街147号「井上薬局」は果たして見つかるのか、当日までとても不安だった。ところが、現地ガイドが「昔の建物は新しく建て替えられて、住所も変わっている。けれども、古い地図で井上薬局が見つかった。ここに間違いない」と断言した時の嬉しさ・・・・

 私は言葉をなくし、呆然としてしまった。その時のビデオカメラは地面しか映ってない。出来ればもういちど、姉と同じ場所に立ち、共有の感動に浸りたい。

向井久美子  

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