日中文化交流

きりえ

「きりえ」運動草創期の思い出(5)

町おこしにも貢献

 私は1971年、病気で本部の任を辞任し、和歌山に帰り、和歌山で活動しました。病状も次第に好転。1981年には中国の文化大革命が完全に破綻しました。「日本のきりえ創作は反中国活動」などと叫んで妨害してきた連中も、顔色を変え、行方不明になる者もありました。

 岐阜県の古川を訪れたのは、NHKの朝ドラマの舞台になった少しあとだったと思います。
 「町おこし」を看板にかかげた町立の産業会館に立ち寄ったところ、館内に立派な「きりえ」のコーナーが設置されているのに、びっくりして立ちどまりました。古川の美しい街並みなど風景を描いた「きりえ」作品が展示され、一人の若いきり絵作家の方が、熱心にきりえを切っていて、観光客の何人かがそれに見入っていました。

 私が、「すばらしいですね。私もきりえに関係あるのですが、貴方はどこで、きりえを習いましたか…」と声をかけると、その方は手を休めて「小さいときに下図で切り覚えたのが、はじまりで…」と話されました。そこで、私が、「その下図は私が関係している日中友好協会が発行した『きりがみ下図集』だったと思いますが…」とたずねると、「昔のことで、忘れました。そうだったかもわかりません」と話されました。

 きりえの草創期には、岐阜県連でも、きりえ普及にみんな一生懸命に取り組みました。私は、「私たちの協会が、きりえの下図を全国に普及し、それが、日本のきりえの始まりとなったのですよ」と話をすると、その方は驚いた顔をして「初めて聞きました」と話されていました。

 協会のきりえ活動家の方々の奮闘で、全国津々浦々で私たちの目の届かないところまで、日本のきりえが普及しているのです。

橋爪 利次 (元本部事務局長)
つづく

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