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北京「二外」との交流 これまで これから

━━━石川賢作・県連会長に聞く

     交流のスタートになった契機は何ですか。
 ❒時は流れ30年に
 私と北京第二外国語大学との交流は、1985年と86年にそれぞれ30名の夏季短期留学生を連れて行ったのが始まりでした。30名をまとめると引率者2名の航空運賃が無料になったりして…。
 87年には、私が勤務していた愛知学泉大学と「学術文化交流協定」を結び、翌88年から学生と教員の交換が始まって現在に至っています。早いものでもう30年になるんです。
 90年代には、中国政府の研究所と愛知学泉大学経営研究所の共同研究の日本側代表になり、中国各地の政府や企業の調査をしましたが、このときに「二外」に大変お世話になりました。

 ❒04年に記念講演

     大学から名誉教授の称号も受けました。
 ❒04年に記念講演
 そうした最中、95年に名誉教授証書を受け、私は「二外」の名誉教授第1号ということになりました。これはいま、愛知学泉大学に交換教授として来ておられる王利民先生の提唱だった、とか。
 間もなく、大学の段建国党書記が食事に招待してくださった。その席で私の名誉教授は「終身」と聞き、いまも名刺の肩書きに使っています。
 「二外」創立40周年だった2004年10月に私は初めて招待され、その折に「私はなぜ中国研究に志したのか」と題して記念講演を行いました。
 ついで昨年11月には創立50周年にあたり、私の年齢なども配慮してくださったのでしょう、個別の招待を受けて、学長、日本語学院長、古い友人などの会食に招かれ、日本語同時通訳授業と、漢字を知らない留学生の中国語授業の参観もできました。これは非常にハイレベルの授業で感心しました。 

 ❒思い浮かぶ方々

   草の根の交流ではどんなことがありましたか。
 ❒思い浮かぶ方々
 多くの先生方と「友人」になりましたが、まず思い出すのが李翠霞教授(女性)で、85年に短期留学生を連れて北京空港に降り立ったとき、綺麗な日本語で話しかけられたんですよ。かすかに横浜の匂いがしてね。伺うと、横浜の中華学校で学んだということでした。
 初期の日本語の先生には他にも帰国華僑がおられました。李教授はよく「二外」の他の女性の先生と私の家に遊びに来られた。すき焼きがご馳走の定番でね。都合4年も学泉大学に来られたが、最後は自分のがんを隠して授業をされ、どうにもならなくなって、黙って帰国され間もなく亡くなられた。
 現在、豊田におられる王利民教授は、対外連絡を任務とする「外事処」勤務時代からの30年近いお付き合いです。レンタカーを借りて、北海道から沖縄まで回り、その食通ぶりには驚くばかり。北京にいたとき、昔の城壁に囲まれた「平遥古城」や避暑地の承徳にも案内していただきました。
 ❒日語ダメの「談話」
 わが県連の中国語学習で、毎月1回の「談話」というのをやった時期があります。2時間、「日本語使用禁止」で先生の話を聞き、討論するわけ。
 それで、ほとんどの講師が2、3回で話の種切れになるのですが、現在「二外」の日本語学部長をされている周潔教授(女性)はなんと9回も話され、その内容が日中の生活・文化・習慣の比較でとても素晴らしかった。
 日本で社会学博士の学位をとられた方でもあり、あの内容の濃い「談話」を録音しておくべきだった、と後悔しています。
 「二外」から学泉大学に来られた先生は、今年でのべ49名にも上ります。

❒これからの方向


 この長い交流を私で終わらせてはならないという気持ちはずっと持ちつづけていました。昨年末に溝口副理事長と同行したとき、「私の後任はこの人」と、学長や学部長にはっきり伝えたところです。
 溝口さんは6年にわたる夏期語学留学引率の尽力・実績で大学と信頼のきずなを強めてきたし、今年も短期留学を組織します。だから大学側としても私たちの希望を正面から受け止めてくれたと確信しています。
 学泉大学に来ている先生や留学生との日常的な交流は、主に豊田支部の活動になるでしょう。私もそれなりの協力を考えています。30年のつながりは県連の宝であり、しっかり引き継いで発展させてもらいたい­­­­というのが私のつよい願いです。

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