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南京・毘盧寺渡来の観音像と東山平和堂(中)

毘盧寺の千手 観音像の来日

 東山観音が南京へ渡った返礼として、汪兆銘「政権」は、毘盧寺の千手観音を名古屋へおくることにした。この仏像は、清朝後期の作であるが、全身金色で高さ約四メートル、毘盧寺法堂の本尊であった。軍事政権の意向は、中国仏教会の中心であった毘盧寺も逆らえなかったであろう。一九四一年三月七日に南京市長より名古屋市長に対し「千手観音贈与につき名古屋市に安置されたき旨」と公式依頼があり、五月一〇日南京市より東亜海運妙義丸で運ばれ、二九日に名古屋港に到着した。

 日本に送られた仏像は、最初、名古屋市の東別院に安置されたが、約六キロ続く四千五百名の歓迎行列を従えて覚王山に移された。一九四一年六月八日から三日間にわたる歓迎式、「事変両国戦没精霊」大供養、「日華文化貢献者」慰霊法要が連続して開かれた。駐日「中華民国」特命全権大使(褚民誼)が贈呈文を読んだが、当然これは汪兆銘「政権」の「大使」であり、歓迎文を読んだのは名古屋市長縣忍であった。

 当時の資料によると、中国僧妙義師が「観音礼賛文」を朗誦すると、式衆仏教徒百余名の読経が堂にあふれた。参会の県知事、市長がまず焼香したが、「白髪の伊藤和四五郎八十余歳の足許もあぶなげに進み出て焼香する姿が参会者の目を惹いた」とある。伊藤はこの時七八歳であり、失意のため急激に老衰したらしい。最後には、本堂前に設けられた大舞台で二十余人の建中寺稚児の礼讃舞がおこなわれた。

 「名古屋新聞」は「興亜観音覚王山へ安置」と書いているように、まさしく「大東亜共栄圏」の名古屋におけるシンボルとして扱われた。しかし、この時期に日本軍は蒋介石をつぶすために重慶爆撃を繰り返す一方、かいらい政府の育成強化や「親善」を重視していったのである。
その後、日暹寺は空襲で全焼して、運び出された千手観音像は相応寺(千種区城山町)に移され、その後は建中寺(東区筒井)へ仮安置された。
(つづく)  

毘蘆寺の木造観音のミニチュア  

<2011.5.5>

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